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ホップ・ステップ・ジャンプ!ー跳ぶ哲学者 大島鎌吉

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令和3年度後期企画展「ホップ・ステップ・ジャンプ!ー跳ぶ哲学者 大島鎌吉」(10/1~11/14)をもっと楽しんでもらうための様々な情報を発信していきます。 【大島鎌吉とは】 近… もっと読む
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記事一覧

⑤時をこえて(終)

金栗「え~…今度55年ぶりに、やって来ましたので。」 志ん生「いや~実に、長い道のりでした。走ってる間に、妻をめとり、六人の子と、10人の孫が、生まれました。ありがとうございました。」 ――第47回「時間よ止まれ」より 金栗四三がゴールして大団円を迎えた「いだてん」。 大河ドラマにしては珍しく(?)、大変晴れやかな最終回だったのが非常に印象的でした。 しかし、大島にとって東京オリンピックは開催=終了ではなく、むしろスタートでした。 「いだてん」最終回の先――大島のその後

④平和の祭典(その8)

大島「田畑さんが表にいてくれたらな…」 田畑「大島君、それを言われると、俺もつらい」 ――第46回「炎のランナー」より 聖火ランナー(第45、46回)いよいよ大会本番が近づく中、いよいよ聖火ランナーの選考がはじまります。 「いだてん」本編では、組織委員会では最終走者として日本スポーツ界のレジェンド・織田幹雄の名前が上がる一方、裏組織委員会(まーちゃん宅)ではこんなやり取りが。 田畑「待って待って。織田? 金栗? ジジイじゃんね~」 大島「いや…ですが、かつての名選手が走れ

④平和の祭典(その7)

菊枝「他紙はともかく、古巣の「朝日」まで田畑憎しの袋だたき……なぜ、田畑ばかりこんな…。」 松澤「奥さん…まーちゃんは、意外と嫌われているんです。」 岩田「あっ。」 菊枝「…でしょうね。」 ――第44回「ぼくたちの失敗」より ふたりの嫌われ者(第44回)発言が二転三転したり、TVでの横柄な態度(に見える様子)から世間のバッシングを受け、遂に国会にまで召喚されたまーちゃん。 あそこの伏線回収は唸るものがありました…。 あの国会審問の様子は、実際に議事録として残っておりますので

④平和の祭典(その6)

五りん「続きまして1932年ロサンゼルスオリンピックで!これまたね、三段跳びの選手でございますからね。大島鎌吉!」 大島「えっ、呼んだ?」 ――第42回「東京流れ者」より 「いだてん✕大島鎌吉」も、ここに至るまで記事にして12回…ようやく本編描写とリンクし始めました。 …いや長いよ!!もっと短くまとめろ馬鹿やろめ!! と、まーちゃんから怒られそうですが、あと数回、お付き合い頂ければ…(^^;) それでは、「東京オリンピックをつくった男」大島鎌吉の活動を見ていきましょう。

④平和の祭典(その5)

平沢「その時がついに来ました。五輪の紋章に表された、“第五の大陸大陸”にオリンピックを導くべきではないでしょうか。 “アジア”に。」 ――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より 昭和34年(1959)5月、まーちゃん達が平沢和重(星野源さん)に最終スピーチを担当して貰おうと1話かけて口説いている頃、大島もまたまーちゃんの頼みで招致成功に向けてロビー活動を展開していました。 大島がまーちゃんから頼まれた使命とは、東欧諸国の票固めでした。 東欧―それは当時東側諸国と呼

④平和の祭典(その4)

田畑「戦争に負けたからといって卑屈になるな。いかなる時も諸君は、日本人の誇りを忘れるな!いや~マッカーサーの演説は実に素晴らしかったねえ」。 松澤「日本は6種目中5種目を制し、古橋君は全勝利を世界新記録で飾ったんだよ」 平沢「費用はどうされたんです?」 田畑・東・松澤・岩田「「「「…………」」」」 田畑「うん、…そしていよいよ、ヘルシンキだよ君。」 ――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より 商取引の場か、それとも神殿かオリンピックと商業主義の関係は現代でも根深い問

④平和の祭典(その3)

派遣問題やらもありましたが、なんやかんやで参加することになった1952年ヘルシンキオリンピック。 まーちゃんは団長として、大島は毎日新聞のオリンピック取材記者として、それぞれ参加することとなります。 ということで今回は、“ジャーナリスト”大島鎌吉について掘り下げていきましょう。 自由人 大島鎌吉大島はヘルシンキ大会の取材のために渡欧するわけですが、「やりたいことはなんでもやってやろう」の精神のもと、この欧州出張をフルに活用した取材活動を行います。 そこで出張の道程はこんな

④平和の祭典(その2)

1952年(昭和27年)、ヘルシンキ大会。日本は戦後初めてオリンピックに参加を認められます。まーちゃんは選手団長として103人の選手役員を率いた。しかしピークを過ぎていた古橋廣之進…… 田畑「知ったような口をきくな!」 ああ、すいません ――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より いだてん本編ではサラッと終わってしまった1952年ヘルシンキオリンピック。 実は、国会会議録の中にヘルシンキオリンピックに関するまーちゃんと大島のふたりの答弁が残されています。 というの

④平和の祭典(その1)

この死に損ないは、「やりたいことは、何でもやってやろう!」とその後の生き方を決めた。 ――大島鎌吉「『オリンピック平和賞』受賞に寄せて」p176 敗戦でボロボロになった日本及び日本スポーツ界。そこから1964年東京オリンピックに向かっていくのか。「いだてん」本編ではなんと1話で年分のエピソードを消化する(第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」)という荒技をみせましたが、ここでは複数回にわたってみていきたいと思います。 本編で何故すっ飛ばすことになったのかもちょっと交えな

③夢のドイツ 地獄のベルリン(3/3)

治五郎「これから一番面白いことを始めるんだ、東京で。本当にできるのかと、眉をひそめてぬかしおった西洋人を、あっと言わせるような、誰もが驚く、誰もが面白い…そんなオリンピックを、見事にやってのける…うん、これぞ一番! わはははは」 ――第37回「最後の晩餐」より 鰻香オリンピック(第36-38回) 1936年、ベルリンから帰国した大島は現役を引退。後進の育成に注力していきます。 というのも、4年後の1940年大会の開催地は東京――日本の陸上界の今後を担っていく大島にとっても選

③夢のドイツ 地獄のベルリン(2/3)

田畑「お前は政治屋になって、物の見方が変わったな」 河野「なに?」 田畑「恩とか貸しとか、外交の道具みたいに。違う、違うんだよ。オリンピックは運動会だよ単なる。あんなものは、2週間かけてやる盛大な運動会。それ以上でも以下でもない。いつからそんな大仰な、国の威信を賭けた一大行事になったんだね」 マリー「田畑さんがメダルをたくさん獲ったからじゃない?」 ――第33回「仁義なき戦い」より 近代オリンピックには、常に商業と政治問題が世界平和の理想とともに横たわっていました。特にナシ

③夢のドイツ 地獄のベルリン(1/3)

河野「奥さん、いいんですか、こんな豆タンクで、口悪いでしょう」 菊枝「口が悪いということは、心は口ほど悪くないということですから」 田畑「…菊枝、やめろ、照れるぞ」 ――第32回「独裁者」より ロサンゼルスオリンピックから帰国後、社長令嬢の酒井菊枝と結婚。30で死ぬ死ぬ言われていた男が35歳でめでたく所帯を持つことに。 一方我らが大島というと―― 「誇れ! 我等の大島! 家中大よろこび『死を覚悟して飛んだろ』と大島君の両親と夫人の嬉し涙」 ――『北國新聞』昭和7年8月6日

②ロサンゼルスオリンピックじゃんねー!!(3/3)

岸「勝ち負けにのみこだわるのはオリンピックの精神に反する!」 田畑「それは明治の話だよ~、もう昭和だよ? 参加することに意義ないわ~、いい加減勝てよって、みんな思ってるよ」 ――第26回「明日なき暴走」より 第27回「替わり目」では、第一部の主人公金栗四三(中村勘九郎さん)が帰郷し、主役交替が明確に示された回でした。 そして、第28回「走れ大地を」では、1932年ロサンゼルスオリンピック準備の裏で進行する、満州事変や五・一五事件、そしてそれに熱狂する民衆、新聞に見切りをつけ

②ロサンゼルスオリンピックじゃんねー!!(2/3)

田畑「国が豊かになればスポーツにも金が行き届く、富める国はスポーツも盛んで国民の関心も高いんです。先生方も、スポーツを政治に利用すりゃあいいんですよ、金も出して、口も出したらいかがですか?」 ――(第26回「明日無き暴走」より) まーちゃんの人生の岐路ともなった、高橋是清との交渉は1928年アムステルダムオリンピック参加への資金繰りに端を発します。オリンピックへの参加には莫大な経費が必要であることは、初参加のストックホルム大会から度々示されていましたが、まーちゃんは政治家を