④平和の祭典(その7)
菊枝「他紙はともかく、古巣の「朝日」まで田畑憎しの袋だたき……なぜ、田畑ばかりこんな…。」
松澤「奥さん…まーちゃんは、意外と嫌われているんです。」
岩田「あっ。」
菊枝「…でしょうね。」
――第44回「ぼくたちの失敗」より
ふたりの嫌われ者(第44回)
発言が二転三転したり、TVでの横柄な態度(に見える様子)から世間のバッシングを受け、遂に国会にまで召喚されたまーちゃん。
あそこの伏線回収は唸るものがありました…。
あの国会審問の様子は、実際に議事録として残っておりますので、興味のある方は下記をご参照ください。
第41回国会 衆議院 オリンピック東京大会準備促進特別委員会 第4号 昭和37年9月12日
アジア大会事件の影響で事務総長及び選手強化対策本部長辞任を余儀なくされたまーちゃん。
事務総長の後任には与謝野秀(1904-1971 演:中丸新将さん)が就任したことは本編でも触れられていましたが、本部長の座はどうなったのでしょうか?
確か、アジア大会事件より前からまーちゃんが「今後は(副本部長)大島君に託す」と公言していたはずですが…
本部長はまーちゃん退任後半年以上空位となっていました。
どうして副本部長の大島が本部長にならない?WHY?
実は…鎌ちゃんは、意外と嫌われてるんです。
えー、今までも散々書いてきましたが、温厚な人柄という評価もある反面、徹底した理論家であり、反骨精神の持ち主であり、駿台スポーツボスであり、筋が通っていないと思ったことには徹底して意見を言う“キレるナイフ”でもありました。
「出る杭」を地で行く行動を取りながら「打たれても打たれてもへし折れない」アイアンメンタルという敵を作りやすい性格だったことも事実。
もう一つは、派閥です。
当時の体協の中心にいたのは、「陸上の神様」織田幹雄をはじめ名スポーツ選手を輩出した早稲田や慶応、また東大など関東の大学が一大勢力として各種連盟の中心にいました。
そんな中で、大島は関西大学出身。
言ってしまえば一匹オオカミなわけです。
しかも組織に従順どころか誰彼かまわず噛みついてくる怖い物知らず。
当然、大島をよく思わない人々が少なからず…というか大勢いたようです。
「なんでも反対のアカ」(※)などと陰口を言われもしたようで…。
一方で大島の先進的な視点に心酔した若手の“青年将校たち(大島談)”もたくさんいたみたいなので、魅力のある人柄だったのでしょうね。
(※『大島鎌吉の東京オリンピック』p197)
また、大島の人柄を知る人々がみな口を揃えて言うのは、
欲がなく、威張らない人だった
ということ(「大島鎌吉の東京オリンピック」p142)。
だからこそ地位に縛られずに意見をバシバシ言えた訳ですが、実際そのために出世の道が閉ざされたケースも少なくなかったみたいです。
なので、当初は大島が副本部長に就任すること自体も猛反発があった様子。
そうした反対意見をガン無視して大島を推薦したのは、まーちゃんでした。
「蚊帳の釣り手」論争以来、「道ばたですれ違ってもそっぽを向く」というくらい大島に対して敵愾心をむき出しだったわけですが、それでも東欧口説き作戦という重要な使命を託したり、選手強化という心臓部を一任するなど、大島を深く信頼していました。
しかし、その一番の理解者ともいえるまーちゃんもアジア大会事件により失脚。
その結果、大島が本部長になることに反発する人が多く、また本人も出世欲がないこともあり、本部長不在問題はしばらくつづくことに。
大島としては事務業務が円滑にまわれば本部長は誰でも良いという心境だったようですが、そんな中、大島の旧友でもある織田幹雄に白羽の矢が立ちます。
陸上競技界の神様のような存在であり、最大派閥の早稲田OBでもあり、本部長としては最適の存在!
…だったのですが、
なんと他の早稲田OB達からその推薦にストップがかかります。
その理由は、
「もしも失敗したら――」
東京オリンピックでメダルを獲得するための選手強化という重大な責務を担っているのが選手強化対策本部です。
実態は大島が担っているとはいえ、もし失敗(メダルを取れなかった)ときの責任が誰にいくかといえば、トップである本部長になります。
成功を収めれば多大なる名誉を得られる替わりに、失敗した場合は世間のバッシングの的。
そんなハイリスクな立場にレジェンドをたたせるわけにはいかん―早稲田ブランドに傷からな…
というリスク回避のため、織田幹雄の就任は白紙に。
じゃあ誰がするのん?というと………
まーちゃんの本部長辞任から役7ヶ月。
遂に大島の本部長就任が決まりました。
反対意見も多々あったものの、実績とリスク、その両方を考えたとき、適任者は大島鎌吉しかいないとまとまったのです。
大島は話が来たときふたつ返事で請けたようですが、「仕事が増えたな…」と思っていたかもしれませんね。
こうして名実ともに選手強化の中枢を担うこととなった大島。
今まではまーちゃんが行っていた政府などとの対外折衝も行わなくてはならなくなりました。
大島の本当の闘いがはじまります。
理想と現実の狭間で(第45回)
大松「引退を発表したら、5000通の手紙が届きました。そのうち6割は、辞めるべきやと。」
政治「…痛っ!」
大松「あと2年もこれ続けるんやったらお前は、人でなしやと!残りの4割は、オリンピックに行けと言う。国民の期待を裏切るとは、お前は、非国民やと!」
政治「ま…待って…。」
大松「どっちや? なあ、どっちや?!? わしは人でなしか!?」
政治「いや違う違う…。」
大松「非国民かどっちや!?」
――第45回「火の鳥」より
昭和38年(1963)12月。
本部長の大島はマスコミを前に、「金メダル15個以上」という目標を発表します。
当時こんな目標を宣言した人は歴代いなかったため、新聞などで大きくクローズアップされました。
というのも、前回(1960年)のローマ大会での日本の金メダル獲得数は4個。
およそ4倍の試算というわけです。
いくらなんでもハッタリが過ぎるんじゃないか―
国内のみならず、大島と交流の深い海外のスポーツ記者たちも大島の発言を「軽率だ」と批判します。
しかし、大島はスポーツ界きっての理論家。
見栄の為に宣言した訳ではありません。
選手強化5か年計画の4年目を終わり、国内の有力選手の様子と各国の情報を集積し、専門家たちと話し合ったうえで、「金メダル候補者は23人…しかしスポーツには時の運があるため、それを考慮すると15個が妥当」と試算したのでした。
特に、レスリング、重量挙げなどが好調でしたので、この辺りで金メダルを多く獲得できそうだ―と。
もうひとつのからくりは、オリンピック種目の追加です。
東京オリンピックから新たに加えられた競技として
・柔道(男子・4階級)
・バレー(男女)
が挙げられます。
これらの種目は特に金が期待される種目でした。
それでも6個ですので、15個という数字が如何に“無謀”に見えたかは、当時の海外スポーツ新聞での叩かれ具合が物語っています。
そしてまた、日本がひとつでも多く金メダルを取るために追加されたバレーボールを巡っては、その歪さが「いだてん」本編でも(比較的マイルドにですが)描かれていました。
本来世界選手権(1962)で優勝したのを機に、引退しようとしていた日紡貝塚の大松監督(演:徳井義実さん)と選手達。
ところが、引退を宣言すると彼女たちの元に届いたのは“国民の期待を裏切るな”“オリンピックに出ないのは非国民だ”という心ない声でした。
勿論その声一色だったわけではないですが、多くの国民が”東洋の魔女”の活躍を期待していたのは事実。
大松「魔女言うなマスコミ!余計婚期が遅れるやろが!」
――第45回「火の鳥」より
大松監督の自著や選手達のインタビューでも度々語られていますが、彼女たちにとってのオリンピックまでの2年間は「栄光を勝ち取るため」ではなく、「解放されるため」の闘いでした。
また、オリンピックはアマチュアの大会である以上、仕事を休む訳にもいかず、15時まで勤務し、その後26時まで練習に明け暮れるという日々。
彼女たちにとってのオリンピックは、大島が感銘を受けた理想とはほど遠い、“国民の期待”と言う名の重圧と束縛をうける呪縛のようなものとなっていたのです。
こうした理想と現実の乖離を、大島は様々な場面で経験していくことになります。
本部長に就任後、大島はまーちゃんに替わって度々国会に召喚されます。
本番までに国会で答弁した回数は8回。
ー選手強化の実態はどうなのか。
ーメダルは獲れるのか。
ー本当にこのままで大丈夫なのか。
様々な質問が飛んできます。
政治家の中には河野一郎(1898-1965、演:桐谷健太さん)のような元スポーツマンも少なくなく、スポーツを愛するが故に厳しい質問や叱咤激励が飛んでくることも。
特に熱く議論を交わしたのが、参議院議員の河野謙三(1901-1983)。
河野一郎の弟にあたります。
第46回国会(参議院 オリンピック準備促進特別委員会 第2号 昭和39年1月28日)での河野謙三と大島のやり取りを抜粋しながら見ていきたいと思います(引用中の太字・略、筆者)。
https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104613811X00219640128
まずは河野が次のような質問を投げかけます。
ブランデージ会長がIOCの会議でクーベルタン精神を強調して、現状の世界のスポーツ界には、アマチュアリズムについて、非常に遺憾な点が多いということを強調している記事を私は見ました。たとえば国費でもって選手を強化するとか、学業を捨てて、スポーツに専念するとか、その他日本の国の現状を見ましても、一々それがうなずけるようなことは、おそらくブランデージ会長がIOCの会議でかような警鐘を乱打したと申しますか、こういう発言をしたことは、世界各国がアマチュアリズムというものはどこかへかなぐり捨てられて、プロ化しておられるという現状を嘆いただけならいいのですけれども、これに対してあらためてオリンピック精神を呼び戻して、お互いに厳格にいこうじゃないかということであるならば、現在、東京オリンピックをの前に控えて、日本のオリンピックの準備のためにやっておるもろもろのこと、ことにここに大島君がおられますけれども、日本の選手強化の状況というものは、私は厳密にいってアマチュアリズムに抵触していると思います。……(中略)……大島君はお忘れになったかもしれませんが、私は大島君から言われたことを覚えておる。一昨年のアジア大会で、河野君、東京大会がいわゆるクーベルタン精神によるところのオリンピック大会の最後になるであろう、もし国際オリンピック大会を続けるならば、東京大会以後においては別な形のものを考えなければいけないであろうという感想を述べられたことを私は覚えております。私もなるほどなと思ったことがある。その大島さんがいま選手強化の担当者である、そうしてアマチュアリズムを踏みにじってやらざるを得ないという苦境に立っておられると思う。これは単に組織委員会の問題や体育協会の問題ではなくて、もう少し東京大会を開くにあたりまして、スポーツ界の現状というものについて、ブランデージ会長の発言というものを吟味されまして、国際的に十分これに対して備えをしておく時期じゃないかとこういうふうに思うのですが、その新聞の記事をごらんになったかどうか、もしごらんになったならば、それに対してどういうふうな御感想をお持ちであるか、またごらんになっていないとおっしゃるならば、これからそれに対してどういうふうな措置をとられるか、これを私は伺っておきたいと思う。
ブランデージ会長とは、東京オリンピックで開会宣言を務めたIOC5代会長であるアベリー・ブランデージ(1887-1985 演:マイケル・ソウッチさん)のことで、オリンピックのアマチュアリズムを守ろうと奔走したことから、「ミスター・アマチュア」とも呼ばれました。
ゆえにオリンピックのアマチュア精神を重んじる大島ともツーカーの仲でした。
そんなブランデージ会長が冬季大会の場で発言したのが、「キャンプの中で二十一日の三週間以上の特別なトレーニングをする者は、アマチュアの資格がない」というもの。
これを受けて、河野謙三は「大島君の進めている選手強化は会長がいうアマチュアリズム違反に抵触しているのではないか?」と大島に問いかけたわけです。
これに対し、大島はこう回答します。
わが国の選手強化につきましては、ホストの国としてわれわれが送り出すところの選手が、明らかにアマチュアの選手でなければならぬという考え方の中で今日までやってまいったのでございます。具体的に申し上げますならば、すなわち合宿を三週間以上続けてやってはぐあいが悪かろう、学校を休み、仕事を休んで三週間も合宿をするというようなことは困るのではなかろうかということで、最初からそういう事態の起きることを極力避けてまいったのでございます。……(中略)……へ理屈みたいになるのでございますが、われわれの調べたところによりますと、かりに学生の選手であるならば、この四月から十月のオリンピック期に至るまで春の休暇と夏の休暇を合わせて六十二日ございます。それに祭日が三日間ございますし、さらに日曜がございまして、全部で八十三日、フルに練習いたしましても、その期間に練習すれば学業あるいは仕事には差しつかえないという日数があるわけでございます。さらにつとめている人の立場に立って考えますならば、大体有給休暇が二週間あるいは二十日間ばかりあるのでございますが、それに休みを加えますならば、やはり三十日くらいは本業をディスターブしないでトレーニングができる時間があるわけでございます。……(中略)……これでいいかどうか、社会的に見まして全部それに振り向けていいかどうか、これはまたおのずから議論はあるだろうと思うのでございますが、しかし三十九年度の合宿の経費などは大体六十日を限度として押えておりますので、ブランデージさんが御心配になるような事態は起こらないのではなかろうかと、かように存じている次第でございます。
自らも屁理屈だと断りつつ、あくまで定められた休みの中でトレーニングをしていると返答しています。
また、ブランデージ会長には個別に返事をしていたようで、
なお、この問題につきまして、私どもブランデージさん個人と多少ともお知り合いの関係もございますので、個人的に手紙を送りまして、今日並びに将来のアマチュア・スポーツの発展のためにあなたの発言はまことに時宜を得たものであると思うが、しかし少なくとも日本では、アマチュア・スポーツの線を守りながらトレーニングをやっている、ただ、わが国に比較的組織的に、あるいは計画的にトレーニングをやるというようなことがかってなかったために、外国の通信社の方々などがこれを見て、あるいは聞いて、何か日本は間違いを、制度の下をくぐって何かやっているんではないだろうかというような一つの記事を送ったものがあるかもわからないけれども、しかし、たてまえとしてはそういうことがないように、また一、二例外はないわけではないと思うが、しかしその例外は全部ではないのだと、その点は御安心を願いたいという旨の手紙を出したのでございますが、ブランデージさんから、そういうたてまえでひとつ十分強い選手をつくってもらいたいという返事がまいっております。今後も選手を勝たせなければならぬという現場の非常に激しい熱意あるいは情熱によりまして、例外が全然起こらないということはこれは保証はできないのでございますが、しかし、われわれといたしましては、例外はできるだけ起こらないように今後とも努力をし、これがオリンピックのみならず、将来の日本のスポーツ界のために一歩も二歩も前進がなされるように努力してまいりたい、かように考えております。
「あなたの理想を守りますよ」と言いつつも、「例外は出るかもだけど…」とどこか歯切れの悪いやりとりをした様子。
この大島の返答に対し、河野からは次のような回答が。
この機会にひとつ警告を発しておこうというようなことならば、お互いにある程度自粛をし、あるいはある程度言いわけの立つ程度にしておけばいいですけれども、本気でクーベルタン精神に戻さなければならぬという気持で言っておられるならば、これはあなたはへ理屈になるとおっしゃるけれども、私はへ理屈にもならぬと思う。ただ、いまの日本だけのことを考えましても、日本の選手強化の態度といい、選手強化の予算の仕組み方といい、これは厳格な意味からいえば、こんなものはアマチュア精神というものはすっ飛んでしまいますよ。
屁理屈にもならない―と、厳しい批判を加えます。
さらに核心に踏み込んでいきます。
大島さん自体は、日本のこの現状から見て、これでアマチュアというものはいいとお考えになりますか。やはり私はあなたも、ブランデージさんと同じように、何かこれをもう少し秩序あるものに、アマチュアはアマチュアらしいものに引き戻さなければいかぬというような感想を持っておられるのではないか。ところが、たまたま強化対策本部長というようなことで、あなたの持っておられる気持と現実と矛盾を感じながら、日夜選手強化に奔走しておられるのじゃないかと思うのですが、で、選手強化本部長は本部長として、それは別として、あなた自体はこれでいいとお考えになっておられるのでしょうか。たしかあなたがおつくりになったのじゃないかと思うのだが、体育協会にオリンピック憲章を掲げてある。スポーツは楽しむことが目的であって、それ以外の目的を持ってはいけない、スポーツは人間のみが持つところの最高の文化であるとか、道徳であるとかいうスポーツ憲章がありましたね。これはあなたがつくったか、もしくはあなたの息のかかった憲章ですよ。その大島さんが、現状においてどういう感想を持っておられるか。
「あなたの持っておられる気持と現実と矛盾を感じながら、日夜選手強化に奔走しておられるのじゃないか」
河野は、大島が心血を注いで作り上げたスポーツ憲章を突き付けながら、大島が普段語っている理想と、選手強化として行っている、普段とはかけ離れた現実の取り組みの矛盾を鋭く批判しました。
ただ、河野も決して大島の上げ足を取りたかっただけではなく、熱い思いがあってこその批判でした。
これは私は、私だけの感想を申し上げますと、オリンピックはオリンピックとして、オリンピックだけがスポーツのすべてではありませんから、この機会に、国民が非常にオリンピックに関心を持ったときに、やはりアマチュアリズムというものを大いに強調するいい時期ではないかと思うのです。そうでないと、逆にスポーツというものの生命が非常に短くなるのではないか、こう思うのですが、私はこういう機会に、ほかの委員の方をおいてお尋ねをするのはどうかと思いますけれども、この機会に、幸いアマチュアリズムというものについてのあなたの持つところの御意見を伺えればけっこうだと思います。
河野の𠮟咤激励を受け、大島は次のように回答します。
河野先生御指摘のとおりでございまして、私たちは、選手強化の仕事はやっておりますが、しかし、日本の代表として出るところの選手は、日本の青年のりっぱな代表であるべきだという考え方で、選手とともにやっておるわけでございます。ただし例外は幾つかございます。その例外をもって全部を推しはかってものを言うことも、私たちとしては非常に迷惑な話であるわけでございまして、例外は出ないように努力はいたしております。
で、私のほうで出しておりますところの機関誌「オリンピア」がございますが、これは多くの人に読んでいただいておると思っておるのでございますが、これなどにはアマチュアリズムの問題、強化対策本部のものの考え方、アマチュアのスポーツを将来とも振興するためにわれわれは一つの人柱になっていくんだというような考え方が、常に出ておるわけでございます。選手強化対策本部出発の当時には、いろいろの意見もありました。最近では、首脳部の方々も大体われわれと同じような考え方で選手強化に励もうではないかというふうに、方向がついているかに考えられるわけでございます。
「出発の当時には、いろいろの意見もありました。」
という発言から察するに、他国のようにプロスポーツ同様の選手強化をすべきという意見と、アマチュアリズムに基づいた範囲で行うべきという意見、この双方をすり合わせながら、落としどころを探っていったのかもしれません。
それでも、アマチュア擁護派からすると屁理屈にもならず、現実路線派からすると半端だと思われてしまう―難しい舵取りであったことは間違いありません。
何より、大島が河野謙三に語ったという「河野君、東京大会がいわゆるクーベルタン精神によるところのオリンピック大会の最後になるであろう」という言葉が、大島やブランデージ会長の掲げる理想と、今や国を挙げての選手強化が当たり前となった現実の乖離を、大島が深く感じ取り、そしてまた理想の限界を悟っていたことを物語っています。
思えば、11年前のヘルシンキ大会の際に国会に呼ばれた時も、既に大島は「オリンピックは今回をもつて瓦解するのではなかろうかとさえ思う」と懸念していました。
今は自らが主催する立場となって、オリンピックの抱える理想と現実の歪さをより深く実感したのではないでしょうか。
「商取引の場か、それとも神殿か。スポーツマンがそれを選ぶべきである。」
クーベルタンのこの言葉が何度も大島の頭をよぎったかもしれません。
ただ、少なくとも大島がオリンピックやスポーツに対する情熱の火を絶やしていなかったのは、機関誌『オリンピア』で数々の記事を掲載したことや、この時期にスポーツ少年団の哲理『期待される少年像』を同時並行で練り上げていたこと、そして本番に向けてとある著作の翻訳に精力を注いでいたことからもうかがえます(凄いバイタリティ…)。
関西大学さんには大島が愛用した手帳が数多く保管されていますが、この昭和38年、39年の手帳はいずれも摩耗が激しく、38年の方は表紙カバーが破けて画用紙で補強している状態。
この2年間の大島が如何にオリンピック―ひいてはスポーツのために心血を注いでいたかが伝わってきます。
さて、いよいよ本番の昭和39年(1964)に突入しました。
「いだてん」本編でまーちゃんが家に籠もっている間、大島はまーちゃんの後を継いで矢面に立って奮闘していました。
次回いよいよ東京オリンピック編クライマックス。
「いだてん」本編では家に籠っていたまーちゃんが何をしていたのか、大島が何故「東京オリンピックを作った男」と呼ばれるようになったのか、乞うご期待!
次回、聖火リレー
参考資料・文献
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)
第41回国会 衆議院 オリンピック東京大会準備促進特別委員会 第4号 昭和37年9月12日
https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104103812X00419620912(参照2022-2-22)
第46回国会 参議院 オリンピック準備促進特別委員会 第2号 昭和39年1月28日
https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104613811X00219640128(参照2022-2-22)