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⑤時をこえて(終)

金栗「え~…今度55年ぶりに、やって来ましたので。」
志ん生「いや~実に、長い道のりでした。走ってる間に、妻をめとり、六人の子と、10人の孫が、生まれました。ありがとうございました。」
――第47回「時間よ止まれ」より

金栗四三がゴールして大団円を迎えた「いだてん」。
大河ドラマにしては珍しく(?)、大変晴れやかな最終回だったのが非常に印象的でした。

しかし、大島にとって東京オリンピックは開催=終了ではなく、むしろスタートでした。

「いだてん」最終回の先――大島のその後の人生をみていきましょう。

みんなのスポーツ運動

大成功の内に終わった1964年東京オリンピック。
多くの国民が日本の戦後復興と明るい未来をオリンピックに見出していました。
大島も目標であった「金メダル15個以上獲得」を見事に達成して満足満足……とはいきません。

何故なら大島にとって、東京オリンピックは「スポーツの面白さ」「平和の素晴らしさ」を日本国民に広く伝えるための宣伝媒体であり、開催とその成功が最終目標ではありませんでした。

大島は昭和39年(1964)を日本の「スポーツ元年」と定め、国民の健康促進、青少年の健全育成、平和運動を目指して、官民一体となった
「みんなのスポーツ」運動を提唱します。

この動きをサポートしたのが河野一郎でした。
河野は国民の健康体力増強対策を閣議に提出し、「体力つくり国民会議」を発足させます。

官では河野が、民では大島が旗振りとして、スポーツ運動を推進していく――かつて大島が「スポーツは国民大衆とともにあれ」と願った未来へ、ようやく一歩を踏み出しはじめました。

ところが……

オリンピックがはじまる直前まで「まったく盛り上がってないじゃんねー!!」状態だったように、終了した途端オリンピックは社会から忘れ去られていきます。

数ヶ月後には「ああ、そんなこともあったなあ」という様子。
(…なんだか、つい最近も経験したような話)

多くの国民にとって、開催中は熱狂したオリンピックも一過性のブーム(お祭り騒ぎ)に過ぎず、「ああ楽しかったね、それじゃあ元の生活に戻ろうか」という風に一気に熱が引いていったのです。

それでも大島は少しでも多くの人達がスポーツに興味を持ってほしいと願い、「みんなのスポーツ」運動を展開しようとするのですが…

不幸は重なるもので、昭和40年(1965)7月、河野が急逝してしまいます。

官側の先導役だった河野がいなくなったことで、「みんなのスポーツ」運動は半ば空中分解の様相を呈してきました。

というのも、東京オリンピックが終わった途端熱が引いたのは一般国民だけではなく、文部省ほかの行政や、日体協や陸連もでした。

「東京オリンピックは成功に終わった。それでもう十分じゃないか――」

当時そうした燃え尽き症候群のような雰囲気があったといいます。

東京オリンピックをゴールと捉えるか、スタートと捉えるか、もっと言えば、スポーツを第一と捉えるか否か―そうした価値観の相違が生んだすれ違いはどんどんと広がっていきました。

それでも大島は「みんなのスポーツ」運動を続けていきます。
それは、ただ単純に「スポーツが好きだから」という理由だけではなく、当時の日本が抱えていた健康問題を危惧していたからでもあります。

高度経済成長期、日本の国民総医療費がぐんぐんと伸びており、大島は「このままだと日本は病棟列島になってしまう」と懸念しています。

スポーツの本質は健康の保持と考える大島は、今こそ国民一人一人が体力増強、健康維持のためにスポーツを始めるべきと声高に主張しますが、結局聞き入れられることはありませんでした。

岡邦行氏の著作『大島鎌吉の東京オリンピック』には、新聞記者として大島と交流の深かった方のインタビューが載せられています。

そうだね、東京オリンピック後の日体協や競技連盟の連中の頭ん中は、国際大会で活躍できる一流選手をつくることでいっぱいでね。だいたい各競技連盟には強化部はあっても、国民のスポーツを推進するといった普及部なんてなかったしね。いくら鎌さんが『みんなのスポーツ』を提唱しても理解されなかった。その辺は不幸だね……
(中略)
 そうだなあ。こうして鎌さんの話をしていると『悲劇の人』ともいえる。単なるスポーツマンと違い、先見の明があるため、結果としていいものを作るし、海外から新しいスポーツ政策を導入してくる。しかし、バックアップする人に恵まれなかった。関西大学出身のため日体協内には仲間がいない、一匹狼だったしね……。
(中略)
やっぱり悲劇の人だったといえるなあ……
――『大島鎌吉の東京オリンピック』pp239-240

かつてまーちゃんとやり合った「蚊帳の釣り手」論争は、皮肉なことに「スポーツの裾野を広げる」派の大島が東京オリンピックでの選手強化に成功したことで、「エリート選手育成」派がより大勢を占めることとなったのです。

また派閥のない一匹狼だったからこそ自由に行動できた反面、基盤の弱さも大島の意見が封殺されてしまう一因となってしまったのでした。


経済的に豊かになっていく反面、公害や過労による健康問題が深刻になる世の中に対し、大島は次のような言葉を投げかけています。

技術革新のマイナス防止を怠るな! 怠る偸安を許すな!

※偸安(とうあん) 安楽を貪って将来を考えないこと

オリンピック平和賞

大島の闘いは、「みんなのスポーツ」運動だけではありませんでした。

かつて大島が「東京大会がいわゆるクーベルタン精神によるところのオリンピック大会の最後になるであろう」と悲観したように、オリンピックの在り方が刻一刻と疑問視されるようになっていったのです。

ひとつは、オリンピックと政治
ひとつは、アマチュアリズムの限界

現代にもつながる諸問題が大島の前に立ちはだかります。

政治問題で一番大きかったことは、1980年モスクワオリンピックボイコット問題です。
当時ソ連の首都であったモスクワオリンピックへの参加に対し、アメリカや東アジア・中東の国々がボイコットを宣言し、東側諸国も報復として1984年ロサンゼルス大会へのボイコットを決めます。
こうして2大会にわたり、平和の祭典は政治的干渉にさらされました。

この時、日本のスポーツ界はどのような反応を示したのでしょうか。
まーちゃんは次のようなスタンスを取ります。

昔はたとえ戦争中でも、オリンピック期間中は停戦したんだよ。現在のものだって、クーベルタンの提唱で平和運動の一つとして開かれてきたんだ。それがどうだ。オリンピックを開こうという国が、よその国に兵隊を出して戦争してるんだから。そんなところにわれわれの代表(選手団)を送る必要はない
――『朝日新聞』1980年2月3日 朝刊

「オリンピックの理想を汚すような輩の開催するものなんかに参加する必要はない!」
というのがまーちゃんの意見でした。

これに対して、大島は

……(前略)……こん度のモスクワ・オリンピックをめぐる米国のボイコットとソ連の開催強行には双方にそれ相応の理由があるが、要するに国益を守る両強大国の正義の論理。政治で解決すべき問題をオリンピックの平和の園にもちこんだのはとんだ場違い。ハタ迷惑も甚だしかった。……(中略)……永遠のスポーツが短命の政治に負けるはずがない。オリンピックを決めるのは政府でなくてIOCなどスポーツ界だ。それはとに角、JOCはオリンピックはどこで開かれようが参加すべきだ。米国も同じだ。米国が過剰興奮を冷やし、モスクワだから大選手団を派遣すると宣言したら、その時こそ世界は米国の平和意志を讃えるだろう。
――大島鎌吉「JOC重大決意の日来る!ここで考えよう!」(『スポーツの人 大島鎌吉』pp232-233)
 国際連合が機能を止めているいま、救いの手はオリンピックの祭典である。時限的な時の政治の動きがどうあろうとも「フエアプレイ」を信奉する世界の青年を集めた「心と心との地球的平和事業」。世界的意味をもつ。……(中略)……これまで我慢に我慢を重ねてきたJOCよ、いまこそ決意する時である。ソ連のアフガニスタン侵攻は、国際的、人道的に許せぬ暴挙だった。……だが、参加する選手だけが毅然と抗議する手段をもっている。世間馴れしたフランスがクーベルタンの遺志を継いで、参加宣言した方式である。開会式には歩かない。国旗、国歌は聖域外に追放し、かわって五輪旗を立ててNOC色を鮮明に打ちだす。わがJOCで言えば、文化団体の独自性を主張することだ。……(後略)……
――大島鎌吉メモ「日本はオリンピックに参加しなくてはいけない!」(同上pp236-237)

「オリンピックの舞台に政治問題を持ってくるなんてお門違いだ!日本も欧州のように政治色(国旗・国家)を脱色して参加すべきだ!それこそが戦争への抗議となるのだ」

という主張でした。
大島とまーちゃん、こういう所でもすれ違うんですね…。

大島はフランスを例に挙げていますが、実は欧州やオーストラリアなどの国々は意外にもボイコットせずに参加しています。
特にイギリスは政府が参加拒否だったのに対し、BOA(英オリンピック委員会)独自に選手を派遣しました。
彼らは参加をする代わりに、開会式への不参加や国旗・国家の不使用など、政治との切り離した姿勢をアピールしています。
大島としては、日本にも欧州のようなスタンスを取ってほしかったのでしょう。

結局、JOCが下した結論は「ボイコット支持」でした。
この時の体協の会長は河野謙三
かつて大島に対し「あなたの持っておられる気持と現実と矛盾を感じながら、日夜選手強化に奔走しておられるのじゃないか」と大島の行動の矛盾を突いた河野もまた、アメリカからの日本も追従せよという指示に国会議員として逆らえず、不参加を決断することとなります。

現JOC会長でIOC委員である山下泰裕氏は、当時代表に選ばれた柔道選手でした。ボイコットが決まった後、モスクワ大会を観に行き、選手と交流して傷ついた心をいやしたといいます。

不参加が決定した後も、大島は「泳いででも参加せよ!」と強く主張し、泣き寝入りせざるを得なかった体協幹部や選手から羨ましがられています。

さらに、「オリンピックの理想の火が消えるんじゃないか」と10日前に思い立ち、急遽モスクワ行きを決めた大島。
しかし、既にモスクワ行きのチケットは締め切られており、渡航する手段は絶望的でした。

が、ここで本領を発揮するのがコスモポリタン・大島です。

【鎌ちゃんのエ~~~~!!!ピソード】
『超高速VIP待遇でソ連入国』

モスクワ行きの便はもうないと旅行会社他から断られてしまった鎌ちゃん。
そこでソ連大使館に直談判(!)すると、
ビザなし・税関フリーパス・通訳と車つき
というVIP待遇かつ数日で入国できました。
冷戦時代に“西側の一般人”が超高速かつVIP扱いで入国できたのは、長年海外のスポーツ関係者と交友を深めていた鎌ちゃんの人徳のおかげでした。

VIP待遇ってどういうことなの…

とまあそれはともかく、モスクワを観に行った際に一つの出会いがありました。
その人物とは、フィリップ・ノエル=ベーカー(1889-1982)。
イギリスの政治家、オリンピックメダリストという肩書を持ち、第一次世界大戦後から一貫して平和運動に取り組み、スポーツによる平和教育に生涯を捧げ、その功績からノーベル平和賞を受賞した人物です。
大島にとって「スポーツと平和」の体現者のような存在でした。

大島はベーカー信者を自称する程にその活動を激賞しています。

二つ目の、アマチュアリズムの限界とはどういったことでしょうか。
当時、オリンピック出場選手のレベルが「スポーツを余暇として楽しむ」世界を超えており、選手にとって練習量と社会保障が割に合っていないという非常に深刻な状況に陥っていたのでした。
そもそも、アマチュアリズムとはある程度金持ちである特権階級だからこそできた選別思想であり、労働階級は差別されてきた―という声がIOC総会の中で提言されました。
大島もこうした意見には賛同を示し、「考え方が民主化された」と評しています。

この結果として、オリンピックのアマチュア規定は撤廃され、プロスポーツ選手も参加可能になりました。
そうなると、より多くの人々が興味関心を示すようになる反面、オリンピックの興行化―いわゆる放映権などに代表される商業主義への先駆けにもなってしまいました。
…中々いいとこ取りは難しいですね。

商業主義への傾倒として大島が心配していたのは、1988年の開催地をめぐり、名古屋が立候補したことでした。
名古屋開催を推進していたのは、地元の経済界―まさにオリンピックの商業利用といえます。
結局のところ、開催地に選ばれたのは名古屋ではなくソウル(ソウル52票・名古屋27票)でした。

当時の新聞では韓国側のIOC買収作戦にしてやられた!という風潮でしたが、大島は次のように諫めています。

 では、なぜ願望むなしく名古屋が敗れ、政治・経済の面でデリケートな関係にある隣国・韓国の首都ソウルに決まったのだろうか。この原因を解明し、本質を把握しなければ、今後、日本は国際スポーツ界の孤児となり、名古屋オリンピッ敗退などよりも、もっと深刻な事態を迎えよう。
――大島「これが名古屋オリンピック敗退の真因だ」

では大島のいう敗退の真因とは何でしょうか。
現地のIOC総会に参加していた大島は、その理由を次のように述べています。

 現在、「五輪」の輪が、一つ、消えている。将来は、必ずオリンピックを続行しないと、世界の平和は実現できないという考えが、みんなの頭を支配しているときに、アフリカでは、まだ、オリンピックを開催していない。これをどうするかという問題が、浮上したんだね。
 この考えが契機になり、名古屋と、ソウルの、投票差があれだけ出たということは、アフリカではまだ開催する「力」がないんだと、中心国で開ける「力」のある立候補国は、韓国と日本だけだったんだね。そこで、この投票は、明日のオリンピックの平和思想、平和理念を眺めながら、まず韓国(ソウル)にやらせてみようということになって、ソウルに票が集まったんだね。
――『スポーツの人 大島鎌吉』p267

つまり、「いつかアフリカで開催できる未来のために、今回は未開催国の韓国(ソウル)に投票してみよう」という流れがあった、と語ります。

ロビー運動は実際あったと思いますが(各国やっていますし)、それでもここまでの大差がついたのは、「初開催国への期待」であったこと―それは、東京が「アジア大陸で初のオリンピックを」と唄ったように、未来への投資であったと分析しています。

めまぐるしく変化する国際情勢の中で、“平和の祭典”としてのオリンピックを如何にして続けていくか―時に大病を患いながらも大島はその理想を守るためにノエル=ベーカーらとともに模索し続けます。

昭和57年(1982)、大島は世界で11番目、日本人として初となる「オリンピック平和賞」を受賞します。
受賞理由は
「競技者、教育者、ジャーナリスト、各種スポーツ団体の責任者として、オリンピックの理想推進のために、生涯をかけて闘い続けてきた功績を讃えて」
でした。

“生涯をかけて闘い続けてきた”という言葉からも、大島の進んできた道のりの困難さがうかがえます。

受賞スピーチで大島は、
「アフリカでオリンピックを開催しよう。残る一つの輪を繋げよう。そのために世界のオリンピアンよ、草の根オリンピック活動に結集せよ。」
と高らかに宣言しています。

その後もOPT(オリンピック・平和・タートルマラソン)の主催など、精力的にスポーツを通した平和運動を展開しますが、その身体は既に癌に蝕まれており―

昭和60年(1985)3月30日、大島は息を引き取ります。享年76。

大島の死後、IOCからオリンピック功労賞が授与されました。
本来生前の人に贈られるものでしたが、異例中の異例として大島に授与されたのでした。

大島の死後、関西大学の図書館前―そこはかつて大島が織田・南部たちと練習に励んだスタジアムがあった場所に、大島が生前育てていた月桂樹の若木が植えられました。
それから30年以上の年月を経て、月桂樹は大きく成長しながら、未来へ羽ばたく学生たちを見守っています。

(小)月桂樹

大島が残したもの

「いだてん」本編後の大島の活動についてここまで振り返ってみました。

「10年先、30年先を見据えていた」と評される大島の視点は、それ故に当時の社会に浸透するまではいかず、現代のスポーツ界やオリンピックのあり方、世界平和をみても、大島が目指した理想にはまだまだ程遠い現状です。

しかし、彼が推進したスポーツ科学は現在のスポーツ界に浸透し、創設に尽力したスポーツ少年団やレクリエーション大会といったスポーツ団体・イベントは、今なお多くの人々に元気と感動を届けています。

大島を顕彰する賞として、関西大学の大島鎌吉スポーツ文化賞、大阪体育大学(大島が設立・運営に携わった)の大島鎌吉スポーツ賞、そして地元金沢でも大島鎌吉賞が近年発足し、大島の想いを時をこえて伝えています。

大島が成し遂げたかったことは、大島の代でも今現在でも叶っていません。
しかし、だからこそ、大島は若者に未来を託すために、様々な種をまき、若木を植えつづけたのでした。
大島が社会に植えた若木たちは着実に社会に根を張り、大樹へと成長し続けているのです。

大島は若者をすくすくと成長する木に例え、その未完成ながら明日に向かって成長していく姿に魅力があると語っていました。

青少年の未完成の力こそが 明日をつくるのだ

                 大島鎌吉

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…てなわけで、これにて「いだてん×大島鎌吉」はおしまいです。
まさかこんなに長くなるとは……
「いだてん」では後半にちょっとだけ出てきた大島鎌吉視点で本編エピソードやその裏側を掘り下げてみました。
まーちゃんや嘉納治五郎ほか個性豊かな登場人物が跋扈する「いだてん」ですが、大島も大分濃ゆいエピソードを持った人物だったことがお分かりいただけたかと思います。
いやしかし長……(以下略)

最後までお付き合いいただきありがとうございました!

参考資料・文献
大島鎌吉「『オリンピック平和賞』受賞に寄せて」(『月刊陸上』10 月号、1982年)
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)
伴義孝『大島鎌吉というスポーツ思想―脱近代化の身体文化論―』(関西大学出版部、2013年)

写真
月桂樹と記念碑(大阪・関西大学総合図書館前)
大島鎌吉顕彰碑(金沢・経王寺)

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