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④平和の祭典(その1)

この死に損ないは、「やりたいことは、何でもやってやろう!」とその後の生き方を決めた。
――大島鎌吉「『オリンピック平和賞』受賞に寄せて」p176

敗戦でボロボロになった日本及び日本スポーツ界。そこから1964年東京オリンピックに向かっていくのか。「いだてん」本編ではなんと1話で年分のエピソードを消化する(第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」)という荒技をみせましたが、ここでは複数回にわたってみていきたいと思います。
本編で何故すっ飛ばすことになったのかもちょっと交えながら…

反骨のジャーナリスト(第40回)

戦時中、ベルリン特派員として勤務していた大島は、帰国後毎日新聞社政治部所属となります。
専門はスポーツ方面ですが、海外事情に明るく政治の方も造詣が深いため、どんどん記事を書き上げ―GHQからにらまれます。

終戦直後だというのに大島はGHQの占領政策について度々批判的記事を書き上げ、その度検閲に引っかかり掲載停止処分に。大島は「GHQのケツの穴は小さい」と評しています。
あんまりにも検閲に引っかかる記事を書くものだから、編集長が「少しは忖度してくれ」というような小言を大島に伝えると、

「当時、日本人にまだこんなのがいる、と思わせるだけで結構」
―大島「『オリンピック平和賞』受賞に寄せて」p176

と返答。一向に折れない大島に辟易したのか、翌年(1946)からは運動部に転属させられます。
が、大島は「待ってました!」と水を得た魚のようにスポーツを通した戦後復興に着手していきます。

昭和22年(1947)、大島は「スポーツ界の展望」と題する記事を掲載しています。その中に大島のスポーツ思想がよく表れている箇所があるのでちょっと引用してみましょう。

ひるがえって見るならば従来の日本スポーツは学生選手の独占的花壇でしたなかった。オリンピック選手のほとんど全部が学生で占められていた実際は、日本資本主義を母体とする社会環境の生んだ奇形だが、勝利追及に急な余りこれを矯正せずいよいよ変質型に追い込んだ事大主義的失敗はこの際断じて繰り返すべきでない。われわれがスポーツ界に声を大にして叫ぶことは「スポーツは国民大衆と共にあれ」「スポーツは大衆に基盤をもって育成促進せよ」ということだ。崩れかけたピラミッドの先端だけをながめて回顧し、弱弱しく「復興」をさけぶ愚人の夢を縋ってはならない。
「スポーツ界の展望・下」毎日新聞 昭和22年1月4日 朝刊

「スポーツは国民大衆と共にあれ」
「スポーツは大衆に基盤をもって育成促進せよ」

スポーツは一部のエリート選手のみが行うべきものではなく、国民みんなで楽しむべきものだと大島は考えていました。

スポーツをする者はいつも平等であり、底辺もヒエラルキーもない。矩形なんだ。
――岡『大島鎌吉の東京オリンピック』p204

こうしたスポーツ普及を推進した背景には、当時日本が抱えていた大きな問題がありました。

青少年育成(第40回)

大島は晩年、敗戦当時の状況を次のように振り返っています。

当時子どもの非行が全国的に広がりはびこっていた。食うや食わずの世の中、空腹でやせ細った子どもたちは、口にはいるものは何にでも貪りたかった。占領軍には悪いヤツも相当いたし、これに加担する大人も少なくなかった。政府・地方自治体は無力で手が出なかった。殊に都市でひどかった。史上初の敗戦。無経験も見逃せなかった。
――大島「『オリンピック平和賞』受賞に寄せて」p174

青少年の健全育成に必要なものは何か。子どもたちに平和を伝えるために何が必要か。
導き出した結論は、スポーツでした。

このとき大島とともに戦後のスポーツ復興に尽力したのが平沼亮三(1879-1959)です。
戦前は衆議院議員や貴族院議員を務め、戦後は横浜市長と務めた政治家である一方、大島が参加した1932年ロサンゼルスオリンピック、1936年ベルリンオリンピックでは選手団団長を務め、陸連や日体協、JOCなどの会長を歴任した政界屈指のスポーツマン。
また、大島が度々述懐するアジア大会満州国参加問題では、体協会長の岸清一と副会長だった平沼が政治的圧力を跳ね除けて参加を強行しています。

平沼が体協とJOC会長を務めたのは昭和21年(1946)のみ(公職追放により辞職)でしたが、その間に大島をJOC幹事に就任させるなど、大島の腕を高く買っていました。
ちなみに、平沼の辞職後、後任として会長の座についたのが“東龍さん”こと東龍太郎(松重豊さん)。

田畑「11月に生き残ったオリンピック関係者15名をバラックに集め体協再建のためのアレを開いて、私は水連理事長にアレした。東さんが体協の会長になり」
岩田「早い早い…」
田畑「東さんが体協の会長にアレした」
――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より

平沼は体協の面々と相談しながら、日本のスポーツ復興を目指して全国大会―国民体育大会の開催を企画します。
昭和21年(1946)、戦禍を免れた京都を中心とした近畿地区で第一回国民体育大会が開催されました。
この際、以下の6つのスローガンが掲げられました。

・戦後の荒廃によって健全娯楽を失った国民、とくに青少年にスポーツの喜びを与えたい
・進駐軍に対し、民族の気概を示そう
・荒廃した国土、とくに旧軍隊の施設をスポーツ文化の場にしよう
・戦禍に喘ぐ国民、とくに退廃した青少年に、平和と民族愛の表徴としてのスポーツを浸透させよう
・純粋スポーツの再建と指導陣の充実を図り、今後の日本のスポーツの再建を期そう
・全国的体育大会を開こう

スポーツによる戦後復興が標榜されていますが、随所に「青少年」へ向けた大会であることが明示されています。

この第一回大会中に「第二回大会は是非我が県で!」と早々に声を上げたのが、大島の故郷石川県でした。
石川県は戦禍を免れたものの、疎開者や引き上げ者増大に伴う失業者問題や衛生環境及び治安悪化、また“結核王国”という不名誉な称号?を抱えていました。当時の金沢市長武谷甚太郎(1892-1976)は、スポーツを通した道徳育成や健康促進、施設建設に伴う失業対策として国体誘致を提唱し、実現に向けて大島へ相談しました。
市長の思いを汲んだ大島は石川県大会実現にむけて各団体と折衝していきます。

平沼ら体協側としても、国体を通して各都道府県のスポーツ施設及び住民へのスポーツ振興を目指していましたので、石川県からの申し出はまたとないチャンス。
石川県側も体協側も全力で取り組んでいくことになります。

この石川国体では、国体のシンボルマークが制定され、沖縄をのぞく46都道府県から選手が参加し、さらに昭和天皇も臨席するという一大行事に。
準備当初は「生活難のこんな時期にスポーツなどやってる場合か」と反対運動もありましたが、市長や知事の熱意が大きな原動力となり、最終的には体協から90点というお墨付きをもらう大成功を収めました。
この石川大会の成功により、国体は毎年全国持ち回りで開催されることとなります。
ちなみにこのとき披露されたのが、金沢市民にはお馴染み「若い力」。この石川国体の成功を記念して、現在でも金沢市の小学校で「若い力」の集団演技が指導・披露されています。
このように、現在もつづく国体の伝統をつくったという日本スポーツ史においても大変重要な意義を持った国体となりました。

また、大島が主導して第一回レクリエーション大会が国体とともに開催されました。
大島の考えるレクリエーションについては、石川国体を前に大島が『北國新聞』の発行する雑誌『文華』(現『北國文華』)に寄稿した記事が参考になります。

勤労者諸君!
我々のスポーツは職業選手をつくるのではない。あくまでも「余暇」を善用して楽しむスポーツでなくてはならない。優れた素質を持つ者が一流選手になることは何の異論もないが、勤労者全員が選手になるためにスポーツをやるのではけっしてなく、あくまでも明日の生産に備えるためのスポーツでなくてはならない。
スポーツは広い文化運動の一翼として英語では『レクリエーション』と呼ばれている。
……(中略)……
レクリエーション運動は、つまり新生活運動であり、産業復興の大道を自信に満ち満ちて堂々と行進するものである。
――大島鎌吉「レクリエーション」p24

まーちゃん達がエリートアスリートを通して国民に勇気や感動を届けていこう!というスタンスに対し、大島のスポーツに対する姿勢はレクリエーションなどより社会にスポーツを浸透させるべきというものでした。
「スポーツは国民大衆と共にあれ」
それが平和と心身の健康につながると信じ、この思想を終生貫き通しました。

ドイツとの交流

大島が青少年育成運動を始めるにあたり、モデルとしたのはドイツ(西ドイツ)でした。
日本と同じく戦争で国が荒廃した状態から、ドイツでは恩師カール・ディームが中心となってスポーツによる青少年育成を推進し、成果を挙げてていました。
大島はディームと何通も手紙のやり取りをしながら、日本の青少年育成のビジョンを構想していきます。

こうした折、横浜市長となっていた平沼から大島へとある相談が舞い降りてきます。
それは「少年団」発足についてでした。

当時横浜の若者たちの非行に心を痛めていた健康教育課長の青木近衛は、健全育成に向けた「健民少年団」の創設を立案します。平沼は青木の熱意をくみ取り、大島に相談を持ち掛けたのです。
大島は青木の願いを賛同し、ドイツのスポーツ少年団の事例を紹介。さらにドイツとの太いパイプを生かした日独の青少年交流を企図します。こうした活動が実り、昭和28年(1953)に横浜市健民少年団が発足。
この育成運動は平沼によって全国市長会で発表され、瞬く間に全国に波及し、翌年、日本各地の少年たちとドイツのスポーツ少年団との国際交流がはじまります。

この活動は、のちの日本スポーツ少年団発足の先駆けとなります。

「スポーツは国民大衆と共にあれ」
これまで培ってきた経験と人脈をフル活用しながら、自らの理想に向けて着実に歩を進めていく大島。

まーちゃんたち水連とは違う切り口から戦後のスポーツ復興を進めていきますが、陸上と水泳、両陣営にとって悲願がありました。

それは、オリンピックへの復帰

1948年、12年ぶりにオリンピックが開催されます(ロンドン大会)。
しかし、敗戦国のドイツと日本は参加資格を与えられませんでした。
そこでまーちゃん達は裏オリンピックを開催。

田畑「頭きたから、裏オリンピックをやったんだ」
平沢「裏オリンピック…?」
松澤「オリンピックにぶつける形で日本選手権を開いたんだよ!」
――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より

古橋廣之進(北島康介さん)、橋爪四郎が水泳で世界新記録を叩き出し、日本国民に大きな勇気を与えました。
さらに水連は国際競技連盟に復帰。全米水泳選手権大会で6種目中5種目を制し、古橋は「フジヤマのトビウオ」とアメリカの新聞から賞賛されました。

国内外の政治情勢に翻弄されながらも必死に活動を続けてきた日本スポーツ界。そして1951年、ようやくIOCから参加資格が与えられ、国際スポーツ界に復帰することが出来ました。
1952年ヘルシンキオリンピックでございます。

このオリンピック参加に向けて、大島とまーちゃんが共闘をはじめます。

次回:ヘルシンキオリンピック

おまけ
実は、「いだてん」本編にも密かに登場しております。役者は大谷亮介さん。

「体協はオリンピック憲章に基づいて責任を果たすのみ」
「田畑君、競技場の件はどうなっておるのかね」
――第36回「前畑がんばれ」より
「千トンの鉄骨があればという話ですね」
――第38回「長いお別れ」より

以上。

え、これだけ…?
(1940年東京オリンピック会議(第36-38回)でしか登場していないので)

なお、台詞無しで登場している第37回「最後の晩餐」ですが、「いだてん」完全シナリオ集には、本編ではカットされたやり取りがありましたのでご紹介。

治五郎「なんてことしてくれたんだね君はっ!」
平 沼「海外の新聞でも大きく取り上げられているそうですな」
……(中略)……
副 島「無理なら無理と早期に判断しお返しする。切羽詰まって返上というこyととなれば、どの国でも開催は困難になり、日本は永久にオリンピックに参加できなくなる。今こそ名誉ある撤退を」
治五郎「オリンピックは何が何でもやるんだよ、東京で!」
平 沼「政治とスポーツは別物です。一度やると言ったものを、戦争だから返上するなど、それこそ国際信義に反する!」
宮藤官九郎『NHK大河ドラマ「いだてん」完全シナリオ集』p248

参考資料・文献
大島鎌吉「スポーツ界の展望・下」毎日新聞 昭和22年1月4日 朝刊
「レクリエーション」(『文華』15号、1947年)
「『オリンピック平和賞』受賞に寄せて」『月刊陸上』10 月号、1982年
大久保英哲「第2回国民体育大会(1947年石川国体)に関する研究(1)」(『金沢星稜大学 人間科学研究』13(1)、2019年)
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)
伴義孝『大島鎌吉というスポーツ思想―脱近代化の身体文化論―』(関西大学出版部、2013年)
宮藤官九郎『NHK大河ドラマ「いだてん」完全シナリオ集』(文藝春秋、2019年)

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