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④平和の祭典(その8)

大島「田畑さんが表にいてくれたらな…」
田畑「大島君、それを言われると、俺もつらい」
――第46回「炎のランナー」より


聖火ランナー(第45、46回)

いよいよ大会本番が近づく中、いよいよ聖火ランナーの選考がはじまります。
「いだてん」本編では、組織委員会では最終走者として日本スポーツ界のレジェンド・織田幹雄の名前が上がる一方、裏組織委員会(まーちゃん宅)ではこんなやり取りが。

田畑「待って待って。織田? 金栗? ジジイじゃんね~」
大島「いや…ですが、かつての名選手が走れば…」
政治「何言ってんの? 全国の、若者が、つなぐ聖火リレーだよ」
――第45回「火の鳥」より

実はこのやりとり、実際とは大きく乖離している部分があります。

それは、大島の発言部分とまーちゃんの立ち位置。

本編では基本おうち時間を過ごすプー太郎みたいになっており、まーちゃん家が裏組織委員会として描かれていました。
では、実際のまーちゃんも家でゴロゴロしていたのかというと、しっかりと組織委員会の役員として会議などに参加していました。
もちろん、事務総長や本部長のような重要なポジションではなく、一委員としてです。
しかし、大島は選手強化対策本部長に就任した際、組織機構の大改革を行い、閑職に追いやられていたまーちゃんの地位向上を図ります。

このように、大島のバックアップを受けたまーちゃんは一定の発言権を取り戻していったのでした。

それでも、自らが必死になって敷いたレールの上を他の人が通っていくさまを、外から眺めているのがどれだけ苦痛であったかは、本人の言葉から察せられます。


私は、やるだけやったのだから、たとえ辞めても明鏡止水の心境だといった、などと伝えられたのは、全くのうそである。巧言令色の徒や、自称オリンピック通につけ入れられたり、国際スポーツ連盟に振りまわされたり、力の入れどころを間違えて、各国参加選手や、国内競技団体の不満を爆発させるようなことにならないかと、心配の種はつきることがなかった
――田畑政治『スポーツとともに半世紀』

さて、こんな風に会議の場から外された訳ではなかったまーちゃん。実際の聖火ランナー選考会議にも参加していました。
当初、聖火ランナーの候補として挙がっていたのは、次のような面々でした。

・政治家(議員や自治体首長)
・財界有力者(商工会会頭など)
・スポーツ功労者(織田幹雄ら)

三番目はなんとなく分かりますが、上ふたつは、こう、よくあるアレです。
所謂“いかにも”な原案が出てきたわけですが、この案に対し、真っ先に真っ向から反対意見を述べたのが大島でした。

仮に、スポーツとは無縁のビール腹の大人たちが、パンツ姿で衆人環視の道路を走ったらどうなるか。あなたたちは想像したことがありますか? 世界中から集まる青年たちのスポーツの祭典が、開会する前にイメージダウンしてしまう。海外からも笑われるのは目に見えています。我々のような大人が大舞台の立役者になってもしょうがない。我々年寄りは沿道の両側に立ち、若者たちに『しっかりやれ!』『前を向いて走れ!』などと声援と拍手を送ればいいわけです。つまり、聖火ランナーは若者に任せれば良い。
――『大島鎌吉の東京オリンピック』p214

まーちゃんの「『ありがとう』で終わりだよジジイは。」(第45回)にも負けず劣らずなキレッキレの反対意見を述べた大島。
しかもこれを政財界や織田幹雄含め様々な候補関係者及びマスコミがいる前でぶっ放したわけです。
そして、この大島の意見にいち早く賛同の意を示した一人がまーちゃんでした。

大島やまーちゃん達の発言に参加者から「え…どうしよう…」という空気が流れる中、織田幹雄が大島の意見に賛同します。

――まったく大島君の言う通りです。私も聖火ランナーの主役は、若者たちに限ると考えます。また、最終聖火ランナーに私や南部さん、田島君の名前も挙がっているようですが、あの国立競技場の百八十段ある階段を、私たちが駆け登るのは大変だと思います。そういったことを考えても、聖火ランナーは元気な若者たちに任せるべきです……。
――『大島鎌吉の東京オリンピック』p215

おそらくですが、事前に大島やまーちゃん、織田の間でこういう流れで発言をするという取り決めがあったのではないかと思います。
本部長兼切り込み隊長である大島がまず進言し、田畑らが即座に賛同し、候補者の一人である織田が辞退しつつ賛成意見を述べる――こうすることで確実に“若者が主役”という意見を通したかったのではないでしょうか。

こうして聖火ランナーの主役は日本の若者たちとなり、最終聖火ランナーは当時早稲田大学生だった坂井義則(1945-2015 演:井之脇海さん)が選ばれたのでした。

第46回では、坂井が広島出身であることでアメリカの心証を悪くする恐れがあるとかうんたらで、まーちゃん激怒→組織委員会に殴り込み、というシーンがありましたが、実際アメリカの新聞で原爆を想起させるなといった批判意見が出ていたようです。

ただ、坂井自身は自分を取り巻いて国内外のマスコミが熱狂していく様子をみてマスメディアに興味が沸き、大学卒業後はテレビ業界に就職します。
人生色々ですね!

このように、「いだてん」本編では織田幹雄最終聖火ランナー派だった大島でしたが、実際にはむしろ“若者が主役”派の急先鋒でした。

思えば、戦後の青少年育成運動でも、国会答弁の場でも、スポーツ少年団でも、著作でも、大島がオリンピックの主役として捉えていたのはいつだって「若者」でした。

大島の口癖として、次のような言葉が残されています。

「青年は未完成である だから明日があるのだ だから魅力があるのだ」


なお、最終聖火ランナーが誰かをスクープしたいマスコミの逸話として、織田幹雄の自宅に盗聴器を仕掛けたり、実家に帰っていた坂井を半ば拉致状態でヘリで東京に輸送しホテルに匿うなど、いまだったらアウトー!!な案件ばかり出てきます。
大らかな時代ですね~

選手団長(第46回)

いよいよ本番直前に迫る8月、大島の選手強化対策本部長の役割も9月いっぱいまで。各種目のコーチたちと最後の総仕上げに入ります。

そんな中、日本選手団団長の選出が始まろうとしていました。
選手団長とは、かつてストックホルムやアントワープ、アムステルダム大会で嘉納治五郎が、パリ(1924)では岸清一が務めた選手団のまとめ役です。
まーちゃんも戦後のヘルシンキ(1952)、メルボルン(1956)で選手団長を務めています。

関西大学年史編纂室さんが保管する大島アーカイブスのひとつ『思い出の記Ⅰ』には、当時の選手団長決定を巡る新聞記事の切り抜きがスクラップされています。

残念ながら、いつ、どの新聞記事なのかが不明な状態なので、今後検証していく必要がありますが、記事を読んでいくと、選手団長決定までの流れが見えてきます。

JOC委員長だった元皇族の竹田恒徳(1909-1942)、JOC総務主事の青木半治(1915-2010)らが選手団長候補者として挙がりましたが、いずれも他の職務兼務による多忙さを理由に辞退します。
続いて候補に挙がったのが、東俊郎(東龍さんの弟、選手強化特別委員長)とまーちゃん、そして本部長だった大島でした。

東俊郎はスポーツ界では人望があるものの、オリンピック関係の初期メンバーでないことから三番手。
功績という面では、間違いなくまーちゃんですが、まーちゃん本人が支持者に対し、「私を推薦したいが為に周りに借りを作るな!今後の為に身ぎれいにしておけ!反対者が一人でもいたら私は引き受けない」というスタンスを唱えています。
おそらく、いわちん達田畑派の若手に対してのメッセージと思われます。

「借りをつくるな」「身ぎれいにしておけ」という言葉から、まーちゃんを選手団長に推薦するために他の委員や政治家に袖の下を渡すような真似をしてはいけない、また失脚したまーちゃんに与することで自分の立場を危うくするようなことはやめろ―そういった思いが垣間見えます。

まーちゃん「アレをナニするんじゃない!そんなことで君たちが汚れてはならんのだ!一人でも反対者がいるなら、俺はならん!!…全員が賛成するなら、なってもいいかな?」

みたいな光景が裏組織委員会で繰り広げられてるのが目に浮かびます。

「俺が俺が!」なイメージのまーちゃんですが、若者に未来を託すという思いは、大島と同じでした。

となってくると、必然的に浮上するのが我らが大島。
しかし、当の本人は「ガラじゃない」「JOC委員長がなるのが筋」とか「せっかく9月で本部長の仕事も終わるんだし、ゆっくり会場から楽しみたいんだが…」てな具合であまり乗り気でない様子。

結局、反対1(大島)、賛成多数で大島が選手団長に任命されます。

選手団長が内定されると、各紙こぞって大島の特集を掲載しはじめました。
そこには“スポーツ界屈指の理論派”という見出しや“とぶ哲学者”“信念の人”といったフレーズが記事の中に散見されます。

インタビューでは飄々とした態度で自分(団長)は選手団のアクセサリーだと答えつつ、金メダル15個は絶対獲ってみせると改めて強調。
名誉云々よりも、選手強化の成果がしっかり出るか否かの方が余程気がかりだった様子がうかがえます。

こうして大島鎌吉をトップとして、臨戦態勢が確立されました。
10月1日に開催された選手団団結式で、大島は選手たちにある本を配ります。
それは、『ピエール・ド・クーベルタン オリンピックの回想』でした。
カール・ディーム(1962年没)がクーベルタンの回想録をドイツ語に翻訳してまとめたもので、大島はそれを邦訳して出版し、選手一人一人に配布したのでした。

君たちが参加するオリンピックがどのような精神によって成り立ち、どのような歴史を辿ってきたのか、それをしっかり学んで参加してほしい―

大島の願いが込められた一冊であり、5年間選手強化を担った選手たちと同様に、大島にとっての集大成といえるでしょう。

平和の祭典(第47回)

金栗「あ、田畑さん! てっきり一番乗りと思っとったばってん、先ば越された」
田畑「眠れなくてね」
金栗「俺もです。それにしても、晴れましたなあ」
田畑「そりゃそうだ。一番面白いことをやるんだ、今日から、ここで! 晴れてもらわなくちゃ困る」
金栗「はい!」
――第47回「時間よ止まれ」より

前日までの大雨がウソのような快晴に恵まれた東京一帯。
こりゃあ中止だろうと前日残念会をしていたブルーインパルス隊が、ヤベッ!と飛び起きて準備に入ったという創作のようなお話もありつつ、開会式が始まります。

日本選手団の入場では、大島は騎手の後ろ、客席側でカクさんの隣に並んで行進しています。
「いだてん」本編でも、当時の入場行進映像の際に、一瞬ですが本物の大島が登場していました。

大島は行進の最中、背広の胸と腰のポケットに、事故や戦災で亡くなったアスリートたちの写真を入れて歩いていました。

先に遠くへ行ってしまった仲間たちにも、この景色を見てほしかったのかもしれません。

「いだてん」では、この青天のもとに行進する選手団の姿を見て、金栗が万歳三唱をはじめ、瞬く間に広がっていく様子は、かつて土砂降りの中で学徒出陣を見送る万歳三唱と見事な対比となっていました。

そして、大島たちが思いを込めた“若者”の代表として、坂井が聖火を手に階段を駆け上り、笑顔で聖火台に点火。
一万羽の鳩が解き放たれ、その上空で本番初成功だったという五輪マークが青空に浮かび上がり、東京オリンピックが始まります。

さて、いよいよ本番が始まると、日本人メダル第一号は、ウェイトリフティングバンナム級の一ノ関史郎選手(銅)、金メダル第1号となったのは、ウェイトリフティングフェザー級の三宅義信選手(世界新記録)でした。

さらにボクシングでも1つ(史上初)、レスリングでも5つの金メダルを獲得。こうしたスタートダッシュによって日本選手団に勢いがつきます。

実は、ローマ大会まではウェイトリフティングの競技日程は大会の後半でしたが、東京大会では開幕早々に設定されています。
当時の関係者からは金メダルラッシュを企図した大島の策略であったと言われています。

選手たちが大活躍するなか、大島はもうひとつの目的のために奔走していました。
というのは、東京オリンピックに各国のスポーツ少年団やボーイスカウトを招待し、子どもたちの国際交流をはかる場を設けること。

選手たちに金メダルを取らせることも使命でしたが、何よりも「世界の若者に平和の祭典を届けたい」という思いを実現することを目指していました。
こうして開催中も少年団の交流や各国の来賓対応など、八面六臂の活躍で奔走する大島でしたが、本人は「エンジョイしている」と飄々と答えています。

こうして2週間の競技日程は無事に終了し、残すところ閉会式のみとなりました。

「東京オリンピックでは金メダル15個以上獲得」を宣言し、物議を醸した大島の公約でしたが、ふたを開けてみると―

16個の金メダルを獲得できました。

前回のローマ大会が4個なので、およそ4倍です。
銀や銅を合わせると29個。
金メダル数としては世界3位、メダルとしては4位。
まさに快挙。

ただし、大島としては「もっと取れても良かった」とやや不満であったようで。花形である陸上と水泳が銅メダル1個ずつであったこともあり、「まだまだ体力・技術の面で追いつけていない」と反省しています。
また、金メダル獲得数を人口割で計算すると、日本は10位にも入れないことを指摘し、日本はまだまだスポーツ後進国だと今後を危惧しています。

そのような冷静な反省を述べつつも、スポーツを愛する日本の若者のひたむきな努力が金メダルに結実した、と選手たちに激励の言葉を述べています。

そして、いよいよ閉会式がはじまります。

戦い済んで閉会式に臨む時、神宮外苑の道の両側は入場できぬ人々で厚い人垣ができていた。選手団がきのうの感慨を胸に静かに進むと日の丸の小旗が千切れるように振られ、万歳!万歳!の歓声が波うった。合い間に、
「よくやってくれた!ありがとう!」
の声が飛んだ。ジーンときたボクは急いで顔を空に向けた。空はうるんでいた。
――大島「一億人の証言 金メダル15個を“宣言”」

いつも飄々とした大島が思わず涙ぐんだといいます。
戦争で壊滅的な被害を被った日本及び日本のスポーツ界を復興するため、20年にわたって全力を注いできた大島の努力が、報われた瞬間だったのかもしれません。
大島は別の回顧録で、「東京でオリンピックをやってよかった!」と心から思えたといいます。

さて、閉会式といえばこのエピソード。

閉会式直前。全競技を終えた解放感から、選手たちは全く言うことを聞かない。肩を組むやつ、抱き合うやつ、酔っ払って雄たけびを上げるやつ。
ところがこの、しっちゃかめっちゃかの行進が、世界中から称賛されたってんだから、あ~分からないものですな~。
実況「開会式の、あの統一された美しさではありません。しかし、そこには国境を越え、宗教を超えました、美しい姿があります。このような美しい姿を、見たことはありません。まことに、和気あいあい、呉越同舟…」。
――だい47回「時よ止まれ」より

この各国の選手が入り乱れた光景を、のちに大島は「一人ひとりが名優以上だった」と振り返っています。そして、こんな言葉を残しています。

「世界平和のためにオリンピックが必要だというのは、ああいうことなんだよ」

10月24日、第18回オリンピック東京大会、全日程が終了しました。
――第47回「時間よ止まれ」より

1964年東京オリンピックも終わり、いよいよ終了……と、言いたいとこですが、あともう一回だけ、その後の大島についてお付き合いください。

まーちゃんは河童に逆戻りでしたが、大島はその後のスポーツ界やオリンピックをどうとらえていたのか―

最終回:信念の人

参考資料・文献
大島鎌吉「一億人の証言 金メダル 15 個を宣言」(『昭和スポーツ史 オリンピック80年』毎日新聞社、1978年)
ピエール・ド・クーベルタン著/カール・ディーム編/大島鎌吉訳『ピエール・ド・クーベルタン オリンピックの回想』(ベースボールマガジン社、1962年)
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
田畑政治『スポーツとともに半世紀』(静岡県体育協会、1978年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)