④平和の祭典(その4)
田畑「戦争に負けたからといって卑屈になるな。いかなる時も諸君は、日本人の誇りを忘れるな!いや~マッカーサーの演説は実に素晴らしかったねえ」。
松澤「日本は6種目中5種目を制し、古橋君は全勝利を世界新記録で飾ったんだよ」
平沢「費用はどうされたんです?」
田畑・東・松澤・岩田「「「「…………」」」」
田畑「うん、…そしていよいよ、ヘルシンキだよ君。」
――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より
商取引の場か、それとも神殿か
オリンピックと商業主義の関係は現代でも根深い問題となっておりますが、世界大会の開催や選手の育成・派遣を考えると、どうしてもお金がかかってしまうのも実情。
大島も戦前「商業学校出身だから」という理由で会計係(=資金収集役)を任されたりと、“スポーツとお金”問題は嘉納治五郎の頃から一貫して悩みの種でした。
そんな寒い懐をやり繰りするために、様々な普及イベントを開催したり、政府に助成金を願い出たり、募金を集めたり…。当時体協の幹部たちは理事も含め“給料なし”
スポーツ愛を糧に手弁当で働いていました。
まーちゃんの実家がどんどん削られていった理由もここに…。
大島が語るような“スポーツは国民大衆と共にあれ”といったレクリエーション路線ならともかく、オリンピックのようなエリートスポーツ路線になると、どうしてもお金がかかってしまう。選手たちはアマチュアなので、あくまで“余暇としてスポーツを愛する人々の祭典”が大原則であり、スポーツで食べていくことは禁止されています。にしては余暇というにはあまりに巨大で負担が大きく、バランスが悪い。
しかし、プロ化すなわち興行化してしまうと、アマチュアの祭典=平和の祭典としての理念が崩れてしまう。
つまり、ある程度のお金持ちでなければオリンピックに参加できない―そういったジレンマが生まれていました。
1925年、近代オリンピックの創始者クーベルタンがIOC委員を引退する際、次の言葉を残しています。
…商取引の場か、それとも神殿か。スポーツマンがそれを選ぶべきである。あなた方はふたつを望むことはできない。あなた方は自分でそのひとつを選ばなくてはならない。……
――大島鎌吉訳『ピエール・ド・クーベルタン オリンピックの回想』p14
田畑「オリンピックは金儲けになる!」
――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より
感覚派と理論派 ふたつの頭脳
昭和29年(1954)、まーちゃん達は日本オリンピック後援会を組織します。
後援会の役割は、
・オリンピック及びアジア競技大会に日本選手団を派遣するための資金の蒐集、募集
・IOC及びアジア競技連盟の会議等への参加派遣資金の調達
・日本でのオリンピック、アジア競技大会及びその会議等の開催資金の準備、調達
・オリンピック精神の普及などを目的とするイベントの開催
つまるところ、オリンピック参加・開催での資金調達係でございます。
この後援会を核として、東京オリンピック招致の臨戦態勢を確立した体協。
昭和33年(1958)には明治神宮外苑競技場跡地に国立競技場(正式名称:国立霞ヶ丘競技場陸上競技場)を建設。竣工の2か月後にアジア初のIOC総会を開催し、IOC委員にがっつりアピールします。
さらに、当時体協会長だった東龍さんこと東龍太郎を東京都知事に立候補させるという荒業を使い、招致体制を盤石なものとしていきます。
ここら辺のエピソードは、「いだてん」本編でも(特に東龍さんの立候補エピソードをクローズアップしつつ)語られていましたね。
このように体協は“田畑派”が中心となって東京オリンピック招致運動を進めていきます。
そんな体協に対し、内部で牙を剥きまくっていたのが、大島鎌吉です。
東・田畑体制に批判を繰り返し、ついたあだ名が
駿台スポーツボス
当時の体協は駿河台(通称、駿台)に事務所を構えていたことと、大島のスポーツに対する激烈な情熱からこう称されました。
勿論まーちゃんも大島もスポーツを愛する心は同じですが、その方向性は異なっていたのです。
田畑氏の見解はカヤの釣り手を上げると底が広がるだった。だがボクは底を広げることが第一、その上にエリート・スポーツの構築論だった。
――大島鎌吉「1億人の証言」p227
1932年ロサンゼルスオリンピックでの水泳大躍進や戦後の古橋広之進フィーバーのように、エリート選手を育成して、国民に夢と希望与える。そうすることで自然とスポーツ人口は増えていく―というのがまーちゃん(短期決戦型)。
対して、レクリエーション運動や少年団のように、普段の社会生活の中にスポーツを浸透させていく習慣を作り上げ、その上にエリート選手を育成していく―というのが大島(長期視点型)。
また、「いだてん」をみていても分かる通り、目的の為なら割となんでもやるのがまーちゃん(目標最優先)。
一貫した信念を持ち続けることが必要というのが大島(理論重視)。
これはどっちが正しいのかと言われるととても難しい話ですが、感覚派の田畑と理論派の大島として「体協の頭脳」と呼ばれる双璧でもあった二人。
この意見の食い違いによりしばしば衝突することもあった様子。
しかし、両者にとってどうしても叶えたい夢がありました。
東京オリンピックの実現。
大島は体協のやり方を度々批判しつつも、オリンピック招致への協力は惜しまないという姿勢でした。
そんな中で巻き起こったのが、
日本オリンピック後援会事件―当時のオリンピック招致運動の息の根を止めかけた事件です。
消えた1千万円
大成功に終わったIOC会議東京大会。東京招致へ明るい未来がみえてきたその僅か2か月後、世間を賑わしたのが後援会事務局の横領事件でした。
当時、東京オリンピック招致のために全国から募金を募り、資金集めをしていた後援会。その会計簿が1千万ちょっと足りないことが発覚します。
調査により、消えたお金は遊行費・接待費に使われていたということが分かりました。
しかもまた、この後援会が管理していたお金の中には、東京オリンピック招致のために全国の児童から集められた募金(オイオイオイ)も含まれていました。
この事件はスポーツ界のスキャンダルとして新聞で大々的に報じられ、国会でも大きな問題として取り上げられます。
後援会立ち上げにはまーちゃんや東龍さんたち体協首脳部が深く関わっていますから、その追求は体協にも及んでいきます。
以下、衆議院 文教委員会 第4号 昭和33年10月17日の様子を見てみましょう。
002 原田憲
○原田委員 十月の十三日に各紙に報ぜられましたオリンピック後援会の経理報告の中に、使途不明の金が一千余万円あり、その募金の中には全国の児童生徒が醵出した心のこもった金が相当額あり、しかも使途不明の金はこのオリンピック後援会の一事務局長が勝手に使ったものであるといわれておりますが、このオリンピック後援会の組織は、現在外務大臣である藤山愛一郎氏が会長で、その役員の中にはわれわれの同僚であるところの政界人あるいはまた財界、体育界、これらのそうそうたるメンバーによって構成されておると聞いておりますが、一体その金はどこに使用され、どのように使われていったのか、世論の的となっておることにつきまして文部当局にお尋ねをし、この問題の事実、真相を明らかにしたいのでございます。
おっしゃる通りで。
020 原田憲
○原田委員 きのう第七回目の清算委員会がありまして、一千九十三万五千二百二十二円が認められない金である、こういうことになったという今の報告でありますが、これだけの膨大な金を集めて、そうしてその目的が非常に崇高な目的であるにかかわらず、一千万円余りの金が行方不明である、こういうことは実に言語道断というか、話にならぬことであると思うのですが、先ほど一番最初に聞きましたところによると、ちゃんと規約もできておる。しかるに運営の実情は、理事会、評議員会で会計報告も何も行われておらぬというまことにおそれ入ったずさんなことでありますが、この会の役員は、会長は藤山氏、副会長は杉道助氏、理事長は平山孝氏その他川崎さんだとかりっぱな国会議員の方も出ておられる。体協の平沼氏や田畑氏や東氏というような人が四十何名も役員に出ておられるが、一体どうしておられたのか。……(中略)……一体ほんとうにだれが中心で運営され、これらの金を使っておったのかということをお聞きしたい。
責任の所在がグダグダになっている様子。
この後も渦中の人である後援会の事務局長は誰が推薦したのが、どうして推薦されたのかなど追求が続きます。
028 原田憲
○原田委員 だれが推薦したかわからぬというような話でありますが、まことに無責任な話であると思います。私らの推測するのには、おそらく体育界にも関係があるし、……(中略)……いわゆる財界の方に顔がきくからよかろうじゃないかというようなことで、この人を理事長が承認をして事務局長になられたように思うのであります。そういうような安易なことが今度のようなことになった。やはり問題の中心はそこにあると私は思うのでありますが、そのことはそのことであとで申し上げることにいたしまして、新聞で見ますと、体育協会の田畑専務理事が、体協は全く被害者なんだというように言っております。これは一面被害者のような形であるけれども、先ほど言いましたように、これは役員として参加しておる限り道義的な責任があると考えるのであります。……(後略)……
「今回の件に関しては、我々体協はまったくの被害者だ!なにも知らん!」
というまーちゃんに対して
「役員なんだから体協にも責任あんだろ!」
と詰め寄ってくる政府側。
さらに、第30回国会 衆議院 予算委員会 第4号 昭和33年10月31日では次のような意見が。
062 川崎秀二
○川崎(秀)委員 ……(前略)……アマチュア・スポーツといえども、片手間ではできない。やはり中心人物は正当な報酬をもらって有給の者がよいのではないか。……(中略)……日本の体育協会では、田畑君にしても、東俊郎君にしても、ほかにれっきとした仕事を持っていて、そのかたわらスポーツのために尽力をしてくれておるのですが、そういう組織では今後また不祥事が起り得るような要素があるのじゃないか。全責任を負わない、おれらこうやって手弁当で愛するスポーツのためにやっておるのだとたんかを切ることがあります。あるなら、それなら一から十まで全責任を持ってやるような体制になっておるかというと、少しいろいろなことを検討して見ると、それは知らぬというようなことが非常に多い。これでは将来国民体育大会とかアジア大会とかオリンピック大会というような行事を次から次に控えて、そうしてそれをうまく運営していくのに、その中心棒となる者が無給だ。無給はいいけれども、それがために、無給だから少しは飲み食いぐらいはしてもいいだろうというようなことで始まったのがこの事件ですぞ。……(後略)……
この事件は、中心人物たちが無給である(故に責任の所在があやふやになり、また魔が差しやすい)ことに根本的原因があると見做されています。
この後、度々国会で取り上げられた後、件の事務局長が刑事告訴され、まーちゃんたち体協の理事全員が辞職する形で終息していきますが、世間のオリンピック招致に対するモチベーションは急落…。
IOCからも問い合わせがくるなど、招致本番直前にして暗礁に乗り上げてしまいます。
この事件の最中、大島はどのような動きをみせていたのでしょうか。
オリンピック・メダリスト・クラブ
体協理事でもない大島からすれば、みんなで必死こいて積み上げてきた招致運動にまさかの味方から水を差されるという
「何しとんのじゃァ~~~~~!!!」
てなもんで。
しかし、自身もジャーナリスト(追求する側)且つ体協の人間(当事者の一人)ですので、この事件を追及する手を緩めることはできません。
新聞紙上で「これじゃあ東京オリンピックの招致なんて夢のまた夢だよ」と厳しく批判しつつも「体協はこれを機に改善しないといけない!」と、完全に道を閉ざすわけではなく、体協首脳部に自浄を求めてオリンピック招致に一縷の望みを託す…という苦しい心の内が見え隠れします。
しかし、一度失った信頼はなかなか取り戻すことができません。
そこで大島は考えます。
この逆境の中で、本気でオリンピック招致に取り組む人達がたくさんいることをPRするためには―
大島は過去のオリンピックメダリスト達に連絡をとり、メダリストから成るオリンピック招致及びオリンピックの理念の普及を目指す新しい団体を組織します。
その名も、オリンピック・メダリスト・クラブ
会長は織田幹雄、大島は理事として運営に参画します。
このメダリストたちによって、世界のスポーツ関係者たちに連絡をとってもらい、「日本のスポーツ界にはまだ本気で東京オリンピック開催を願う人間が集まっている」ことをアピールしていきます。
また、大島としては団体規約「クラブは会員相互の親睦を図り、オリンピック思想の普及、オリンピック理想の実現に寄与し、併せて後進会員の育成に協力することを目的とする」を重視し、このクラブの活動によってオリンピックの理念を徹底周知させていくことにありました。
大島としては、ただ東京にオリンピックがくれば万々歳ではなく、“平和の祭典”であるオリンピックを開催する本当の意味を国民に周知させたいという思いがあったのです。
後援会の事件で暗礁に乗り上げた東京招致運動でしたが、このクラブの活動により、なんとか招致活動の継続という方向で進んでいきます。
そして、いよいよ1964年オリンピック開催地投票の日が近づいてきた中で、大島はまーちゃんから重要な任務を与えられます。
次回:東欧口説き落とし作戦
参考資料・文献
大島鎌吉「一億人の証言 金メダル 15 個を宣言」(『昭和スポーツ史 オリンピック80年』毎日新聞社、1978年)
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)
伴義孝『大島鎌吉というスポーツ思想―脱近代化の身体文化論―』(関西大学出版部、2013年)
「大島鎌吉のスポーツ思想に訊く(3)-日本のオリンピック運動という視点において-」(『大阪体育学研究』56、2018年)