③夢のドイツ 地獄のベルリン(2/3)
田畑「お前は政治屋になって、物の見方が変わったな」
河野「なに?」
田畑「恩とか貸しとか、外交の道具みたいに。違う、違うんだよ。オリンピックは運動会だよ単なる。あんなものは、2週間かけてやる盛大な運動会。それ以上でも以下でもない。いつからそんな大仰な、国の威信を賭けた一大行事になったんだね」
マリー「田畑さんがメダルをたくさん獲ったからじゃない?」
――第33回「仁義なき戦い」より
近代オリンピックには、常に商業と政治問題が世界平和の理想とともに横たわっていました。特にナショナリズムとの距離感はどれが正解と言ってよいのやら。
1936年ベルリンオリンピックは、ヒトラーによる国威発揚のために利用されたことで有名です。
一方、この大会で創始された様々なイベントが、その後の近代オリンピックの基礎となるなど、様々な要素を孕んだ大会でした。
様々な思惑の交錯する大会の中で、大島生涯の友となるふたつの出会いを果たします。
スポーツをする者はいつも平等なんだ(第35回)
『日章旗よメーンマントに高々と上がれ! 日章旗よメーンマントに高々と上がれ!』
五りん「優勝した選手の、出身国の国旗が掲げられ、国家が演奏されることを、孫選手と南選手は知らされていませんでした」
勝蔵「……どんな気持ちだろうね」
勝「2人とも、朝鮮の人ですもんね」
――第35回「民族の祭典」より
ベルリンオリンピックの日本選手団には、所謂本土以外(植民地)の出身者がはじめて参加していました。
マラソン選手の孫基禎(1912-2002 朝鮮新義州 養正)と南昇竜(1912-2001 朝鮮順天 明治)です(役者はがんばれゆうすけさんと布江剛士さん)。
二人はこのマラソンで、孫が金、南が銅を獲得し、アジアのマラソン選手としてはじめてのメダルをもたらしました。
金メダルを獲得した孫は、朝鮮民族としてのアイデンティティを持って走っていたため、表彰式で掲揚された日ノ丸と国歌(自分たちの活躍=日本人の活躍という認識)にショックを受けたと後年述懐しています。
また、地元朝鮮の新聞社が孫のユニフォームの日ノ丸を消して写真を掲載したことで、孫も見張り対象となり、帰国途中には特高警察の尋問に遭うということに。
懸命に走って勝ち得た栄光の月桂冠から一転、いちスポーツマンでしかなかった学生が一夜で英雄となり、その栄光を「日本人」として扱いたい層と朝鮮独立の旗印としたい層の双方から政治的に利用される存在となっていまいます。
孫は翌年明治大学に入学しますが、入学条件として各種大会で走ることを許されなくなりました。
戦中は朝鮮半島の学生動員の旗印として演説を任され、戦後はソウルに在住していたため故郷(北朝鮮側)と分断。更に朝鮮戦争が勃発すると朝鮮人民軍に一時監禁されるなど、政治に翻弄されながら波乱の生涯を送ります。
それでも彼はスポーツを愛し、南とともに「マラソン普及会」を結成して行進の育成にあたるなど、韓国スポーツ界の発展に尽力していきます。
彼が再び大観衆の前を走ったのは、1988年ソウルオリンピックの聖火ランナーとしてでした。
そんな孫が終生「兄貴」と慕った日本人がいました。
我らが大島鎌吉です。
彼が大島に惚れたきっかけは、開会式の入場待機のとある出来事でした。
松澤「…いやいやいや(苦笑)冗談はよしておくれよまーちゃん、それ4年前のロサンゼルスの帽子じゃない」
田畑「何を被って歩こうがオレの勝手だ。貴様らこそなんだその戦闘帽、ドブネズミじゃあるまいし」
小池「そうかなあ、カッコいいでしょこっちの方が」
宮崎「なんか田畑さん、1人だけ浮かれてるみたいですよ」
田畑「浮かれて何が悪い! 俺はスポーツをやりに来たんだ。歩くのは戦場じゃない競技場だ。ナチスに媚びてんのか日本軍への気遣いか知らんが、こんなものはオリンピック精神に反する!」
――第35回「民族の祭典」より
本編ではこんなやりとりがあった開会式でしたが、実はその裏でも色々いざこざが…。
陸上競技選手団主将だった大島は旗手を務めており、その後ろに各選手が背の順で並ぶことに。
みなボチボチ並び始めると、馬術に出場する軍人から大島へ次のようなクレームが入ります。
「我々が朝鮮人や女の後方を歩くなど言語道断だ。貴様なんとかしろ。」
当時の日本人特に軍人には植民地(朝鮮・台湾等)の人間と、また男性が女性と同列に扱われることを屈辱とする差別意識がありました。
スポーツの場とはいえ、苟も帝国陸軍の軍人たる自分たちが何故このような屈辱的扱いを受けなければならないのだ―と。
学生や新聞記者ら民間人と職業軍人、スポーツに対する姿勢の違いが如実に表れていますね。
この意見を聞いた大島は次のように言い放ちます。
「ふざけたことを言うんじゃない。オリンピックは平和の祭典だ。朝鮮人も日本人も、それに軍人も同じ人間ではないか。それでも不満なら、行進しなくともよい。立ち去れ!」
――『大島鎌吉の東京オリンピック』p82
まさかの反論に、周りの選手たちは一瞬にして凍り付きます。
軍人の要求に臆するどころか真っ向から反発する大島。その姿に孫は深く心を打たれたのでした。
その後帰国途中の船内でも大島は傷心した孫の世話を焼きつつ、仲を深めました。
現在関西大学には、孫が大島に贈った古代ギリシャの青銅兜の複製品が展示されています。
これはベルリンオリンピックのマラソン優勝者に贈られるはずだった兜が、何故か孫に贈られないままになっていた(why…?)ことが後年発覚。その返還運動に際し、IOCに働きかけるなど骨を折ったのも大島でした。
孫のもとに兜が届いたのは大島の没後でしたが、これまでの感謝の意を込めて兜の複製品を、大島の遺品を保管していた関西大学に寄贈したのです(本物は現在ソウル国立中央博物館蔵)。
この逸話や前回の満州国参加問題をみると、大島の思想は
「スポーツをする者は皆平等」
に集約されています。
大島にとって、日本人も中国人もフィリピン人も満州人も朝鮮人も、世界のどんな人種であろうと、また性別であろうと、平等にスポーツを勤しむ権利を有していると考えていたようです。
だから、満州国選手の大会参加に強く賛成した一方、中国体協の離脱を嘆き、また「日本人も朝鮮人もあるか」と啖呵を切ったのです。
この首尾一貫した大島のスポーツに対する姿勢は生涯を通してブレることはありませんでした。
そして孫も、大島の思想に深く共感し、スポーツを通した世界平和運動や青少年育成に大島と共に生涯をかけて取り組んでいきます。
政治的・民族的対立に翻弄されながらも、スポーツによって大島や田島直人らと友情を深められたことに、世界平和の光を見出したことを後年幾度となく語っています。
”The Important thing in Olympic Games is not to Win, but to Take Part.”
孫がオリンピックで本当の意味で得たものは、生涯の友だったのかもしれません。
ドイツスポーツ界の重鎮(第35,36回)
五りん「かつてオリンピックを『ユダヤの汚れた芝居』と揶揄した総統アドルフ・ヒトラー。側近ゲッペルスの助言により、態度を急変、総力を挙げてオリンピックの準備に取り組みました。自然石を使った10万人収容のスタジアム。平和の鐘、事務総長カール・ディーム発案による聖火リレー。記録映画を著名な監督に撮らせたのもベルリンからだそうです」
――第35回「民族の祭典」より
選手・大島としては辛い結果となってしまったベルリンオリンピックでしたが、彼にとって新たな人生の幕開けとなる出会いを果たします。
その人物とは、カール・ディーム(1882 ~ 1962)。
学生時代の大島が深い感銘を受けたスポーツ医学本の著者にして、20世紀ドイツスポーツ界の中心的人物です。
またの名を「クーベルタンの継承者」。
現在に続く聖火リレー(会場での点火)の創始や、ユースキャンプの開催など戦前ドイツスポーツ界を率い、今大会でもその中心にいました。
一方で、オリンピックがドイツの国威発揚の場として利用され、それを事務総長として主導していたなど、現在ではナチス政権下での国家社会主義への協力が取り沙汰されるなど様々な評価がなされています。
大島は国威発揚に利用されたベルリンオリンピック及びカール・ディームの活動について戦後、次のように評しています。
ディーム博士はベルリン・オリンピック大会の開催に当り組織委員会事務総長として活躍し、オリンピックプログラムを今日の規模に整理したこと、スポーツと音楽と芸術を結びつけて開会式(実際には開会式当日の市街地劇場)でベートーベンの第九シンフォニーを演奏したこと、勝者にオリーブの枝に代えて柏の木を贈ったこと、オリンピヤとオリンピック都市を結ぶ聖火リレーを実現したこと、オリンピックの鐘を着想したことなど何れもオリンピックの理想を実現しようとした試みであった。ベルリン・オリンピック大会以来、オリンピックの規模が一変したのは、研究家、オルガナイザー(ディーム)に理念があり、その理念を実現するだけの力があったからである。不幸にしてこのことはそのまま評価されていない。ヒトラーが国威を宣伝するために行った厚化粧が、ディーム博士が意図するもの以上に人目を引いたからである
――大島鎌吉「カール・ディーム博士の人と業績」428頁
自他共に認めるディーム心酔者の大島の評価なので、一歩引いて読む必要がありますが、この時の大島がディームを信望していた理由は、スポーツ科学に対するディームの深い知見への敬慕でした。
ディームが提唱するスポーツ科学は、医学、哲学、言語学、考古学など学際的で重層的なものであり、今大会でもドイツ勢はディームの科学トレーニングの結果、輝かしい成績を残すなど、実践的内容でもありました。
学生時代からディームの著書に学びながら科学トレーニングを部員に推奨してきた大島は、これを機により深く学ぼうとディームに面会を求めたのでした。
一選手が大会事務総長に会いに行く行動力もさることながら、通訳を介さずドイツ語で質問をぶつける大島に、ディームは快く面談に応じて親交を深めたといいます。
しかし、選手を引退しようという大島が、なぜ今科学トレーニングについて…?
それは、きたる1940年東京オリンピックに向けての選手強化を視野にいれてのことでした。
「熱狂のうちに閉幕したベルリンオリンピック。閉会式も嫌味なほど豪華で、掲示板にこんな文言が躍りました」
『1896 Athina』『1936 Berlin』『1940 Tokio』
『SEE YOU TOKIO』
――第36回「前畑がんばれ」より
次回(3/3) 死線のドイツ
参考資料・文献
大島鎌吉「カール・ディーム博士の人と業績」(『体育の科学』11・12合併号、1955年)
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
釜崎太「カール・ディームの『スポーツ教育』論にみる『身体』と『権力』」(『弘前大学教育学部紀要』99、2008年)
孫基禎『ああ月桂冠に涙 孫基禎自伝』(講談社、1985年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)