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ホップ・ステップ・ジャンプ!ー跳ぶ哲学者 大島鎌吉

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令和3年度後期企画展「ホップ・ステップ・ジャンプ!ー跳ぶ哲学者 大島鎌吉」(10/1~11/14)をもっと楽しんでもらうための様々な情報を発信していきます。 【大島鎌吉とは】 近… もっと読む
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2021年12月の記事一覧

④平和の祭典(その4)

田畑「戦争に負けたからといって卑屈になるな。いかなる時も諸君は、日本人の誇りを忘れるな!いや~マッカーサーの演説は実に素晴らしかったねえ」。 松澤「日本は6種目中5種目を制し、古橋君は全勝利を世界新記録で飾ったんだよ」 平沢「費用はどうされたんです?」 田畑・東・松澤・岩田「「「「…………」」」」 田畑「うん、…そしていよいよ、ヘルシンキだよ君。」 ――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より 商取引の場か、それとも神殿かオリンピックと商業主義の関係は現代でも根深い問

④平和の祭典(その3)

派遣問題やらもありましたが、なんやかんやで参加することになった1952年ヘルシンキオリンピック。 まーちゃんは団長として、大島は毎日新聞のオリンピック取材記者として、それぞれ参加することとなります。 ということで今回は、“ジャーナリスト”大島鎌吉について掘り下げていきましょう。 自由人 大島鎌吉大島はヘルシンキ大会の取材のために渡欧するわけですが、「やりたいことはなんでもやってやろう」の精神のもと、この欧州出張をフルに活用した取材活動を行います。 そこで出張の道程はこんな

④平和の祭典(その2)

1952年(昭和27年)、ヘルシンキ大会。日本は戦後初めてオリンピックに参加を認められます。まーちゃんは選手団長として103人の選手役員を率いた。しかしピークを過ぎていた古橋廣之進…… 田畑「知ったような口をきくな!」 ああ、すいません ――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より いだてん本編ではサラッと終わってしまった1952年ヘルシンキオリンピック。 実は、国会会議録の中にヘルシンキオリンピックに関するまーちゃんと大島のふたりの答弁が残されています。 というの

④平和の祭典(その1)

この死に損ないは、「やりたいことは、何でもやってやろう!」とその後の生き方を決めた。 ――大島鎌吉「『オリンピック平和賞』受賞に寄せて」p176 敗戦でボロボロになった日本及び日本スポーツ界。そこから1964年東京オリンピックに向かっていくのか。「いだてん」本編ではなんと1話で年分のエピソードを消化する(第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」)という荒技をみせましたが、ここでは複数回にわたってみていきたいと思います。 本編で何故すっ飛ばすことになったのかもちょっと交えな