大分更新が滞っておりましたが、偉人館雑報活動再開でございます。
会期も残すところ1週間ちょっととなりましたが、ラストスパートを祈念して、高峰譲吉没後100年展「Try, Try Again!―二千五百年の歴史に於て初めての人―」の見どころを紹介してまいります。
今回の展示テーマは大きく二本柱で構成されています。
1本目の柱は「没後100年」。
譲吉の死後、新聞や追悼会でどのような評価がなされていたかを紹介しています。
特に評価された四つの顔「発明家」「化学者」「実業家」「無冠の大使」に分け、それぞれに関連した資料を展示しています。
2本目の柱は「Try, Try Again!」
譲吉の生涯を振り返り、何度も何度も挑戦し続けて成し遂げた業績について紹介しています。
「発明家」「化学者」「実業家」「無冠の大使」それぞれの分野での挑戦エピソードを抜粋し、パネルにて展示しています。
このエピソードについては、過去に雑報でも紹介してますので、譲吉の生涯やその挑戦に興味がある方は、是非これらをお読みください。
今回の目玉は、なんといっても第一三共株式会社からお借りした譲吉ゆかりの資料の数々でございます。
普段は一般公開を行っていない資料ばかりですので、この機会に是非ご覧になってください。
この他にも、野口英世が譲吉に宛てた手紙の案文(英文)や渋沢栄一との最期のやりとり、病床の譲吉が妹・竹橋順に宛てた手紙など、偉人館が所蔵する様々な譲吉ゆかりの資料を展示しています。
その中で今回紹介しておきたいのが、『In Memoriam Dr.JOKICHI TAKAMINE』というスクラップブックです。
高峰譲吉の死後、ニューヨークの新聞社を中心に100 を超える死亡・追悼記事が掲載されました。それらの大半の記事はこの本にスクラップされ、譲吉逝去の衝撃と影響を現在に伝えています。この他にもお悔やみ文・香典リスト等も併せて貼付されています。同じ内容のものが2 冊残されており、片方は損耗が激しいため、1 冊は披露・観賞用、1 冊は保存用につくられた可能性が考えられます。
今回の展示では、これら記事の英文並びにその翻訳をパネルにして、当時のアメリカ社会が高峰譲吉の業績とその死の影響をどのように捉えていたのかを紹介しています。
そのうちの一点がこちら。
高峰譲吉
昨日、聖パトリック大聖堂で葬儀が執り行われた高峰譲吉博士は、研究と発明における功績により、社会に恩恵を与えた人物としてその名を刻んだ多くの日本人学者の一人である。彼はすこぶる精密な分析者にして、化学の業績は対象に関する正確な知識を基礎とし、今日稀にみる大人物である。
しかし、高峰博士は偉大な化学者であるのみならず、人類の利益のために神秘たる自然を征服する素晴らしき指導者でもあった。彼は世界的な視野を持つコスモポリタンであり、国際平和に対する知的労働者であり、人類社会の親善大使であった。
彼の機敏さと不屈の精神は、化学の研究のみならず政治方面にも働いていた。彼は何年にもわたりアメリカを居住地としたが、故郷への愛情を失うことはなかった。彼は日米両国の人々がいざこざを超えて相互理解を永遠に望む気持ちを育むよう努めた。彼は、持ち前の知恵と経験と誠意から、両国の個人および国同士の軋轢を取り除くことに大いなる貢献を果たした。日米の友好への想いは、その死を早めたかもしれない。なぜなら、ワシントン会議の際、病状の悪化が懸念される己が身を顧みずに日米親善へ尽くす原動力になっていたのだから。
高峰博士の死により、日本は偉大な息子を、米国は得難き友人を、世界は大いなる業績を上げた科学者を失ったのである。
ニューヨーク・ヘラルド1922 年7 月26 日記事
展示室にはこの他様々な譲吉評がパネルで紹介されていますので、文字ばかりで面倒ですが併せてお楽しみいただければm(_ _)m
ちなみに、サブタイトルの「二千五百年の歴史に於て初めての人」とは一体何かと云うと、譲吉が亡くなった1922年の11月に東京で渋沢栄一が発起人となって執り行われた追悼式の中で、帝国発明協会会長であった阪谷芳郎が語った高峰譲吉評です。
展示室には、この追悼演説で語られた譲吉評について、演説を担当した渋沢栄一・大河内正敏・阪谷芳郎・金子堅太郎の言葉をパネルで紹介しています。
次回は、何故高峰譲吉ゆかりの品々が、第一三共株式会社に所蔵されているのか―譲吉と三共のつながりについて紹介していきます。