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渋沢栄一と高峰譲吉 出会いと別れ(上)

金沢ふるさと偉人館

遂に最終回を迎えた『青天を衝け』。
全41回と歴代大河の中でも少ない話数でしたが、最初から最後まで見応えのあるものでしたね。…しかし、41回で描き切るには渋沢栄一の生涯はあまりにも膨大すぎる(年齢的にも業績的にも残存史料的にも)。

ということで、『青天を衝け』本編中では残念ながら描かれなかった、栄一の知られざるドラマをご紹介します。
そして、その物語には金沢の偉人が深く拘わっているのです。

神戸での邂逅

明治19年(1886)12月、栄一は銀行の用務で神戸を訪れていました。
夜半、宿に戻った栄一のもとに、一人の若者が訪ねてきます。

男の名は、高峰譲吉

当時、農商務省で働いていた彼は、先日アメリカの長期出張から戻ってきたばかりでしたが、その出張先でみつけたとある材料をネタに、栄一へ次のことを熱弁します。

「これからの日本の農業を発展には、人造肥料(化学肥料)が必要だ」

と。
当時の日本の肥料といえば、糞尿・〆粕などでしたが、譲吉は海外でみつけた燐鉱石を用いた人造肥料の製造と普及を構想し、その実現のために栄一へ話を持ちかけたのでした。

さて、これを聞いた栄一は
キレます。

百姓生まれの自負があった栄一にとって、農業経験のない若造が先祖代々受け継がれてきた伝統的方法を否定してくるという状況。

「知った風な口を聞くなァ~~~!!!」

と譲吉にくってかかります。

元来私は百姓で、肥料の事に多少趣味を有つて居りました、が所謂野蛮的の肥料であつて、文明的の方法でなかつた為に、同君の人造肥料説を大に駁撃して、畳水練、雑誌の上の学問ではいけない、私は斯く斯くであると申して此提議に反対した。
――渋沢栄一「追悼演説」『高峰博士』p194,195

この栄一の口撃に対し、譲吉は具体例を交えながら丁寧に何故人造肥料が必要なのかを栄一に説明します。
譲吉が口達者だったのか、栄一の物わかりの良さか、段々と乗り気になり、譲吉に焚き付けられるままに化学肥料の会社を設立することになります。

幸にお前は工業に多少の経験があるから、大に力を尽して見たら宜からうと云ふ勧告を受けまして、段々の説明に深く感じまして、東京に帰りまして益田孝君に御相談をして、即ち明治二十年に人造肥料会社設立のことを提議したのでございます。
――同上p195

人造肥料株式会社

譲吉の熱い構想を聞いた栄一は益田孝とともに東京人造肥料株式会社を設立(フットワークの軽さが凄い)。
譲吉も二度目の海外出張から(アメリカで挙式したばかりの奥さんを連れて、同船していた益田孝にイチャイチャを見せつけながら)帰国後、農商務省を辞して人造肥料会社の技師となります。

栄一と譲吉、稀代の天才がタッグを組んだ株式会社。これはもう成功が約束されたもの―と簡単には行きませんでした。
というのも、栄一がはじめそうであったように、農家の人達も人造肥料には懐疑的でした。
もしこの肥料を使用して、その年の農作物が育たなかったら…?
そう思うと腰が低くなりますし、「おらたちは今までコレでやって来たんだ!」と伝統的方法を重んじる気持ちも分かります。

そこで譲吉は全国を飛び回りながら、人造肥料の効果や重要性を営業して廻ります。
そうしていくつかの農家に協力してもらえることになりましたが、今度はそこからクレームが。

さて組立つて見ますと、側で考へるやうには事実運びませぬ。又実際の上に於てやり損つて博士に大に叱られたり、世間に笑はれたことが度々ある。例へば窒素肥料を送るべき所へ他の肥料をやつて失策したこともあります。又越中の高岡辺の水の多い田に窒素肥料をやつた所が、粉であるから皆流れて仕舞つた。不慣な所からさう云ふやうな種々な欠点もございました、
――同上、p196

農業のプロである栄一も人造肥料の扱いは素人なので、肥料を十把一絡げに扱った結果、Aが必要な所にBを、Bが必要なところにAを送るという漫画みたいなミスをして譲吉に怒られたこともあったようです。

こんな風に、最初は手探りで悪戦苦闘しながらの出発となり、一年目は勿論大赤字。しかし、段々と使い方も馴れてくると、人造肥料を使った田畑の成果が如実に表れるようになってきます。そうして実績が出てくると、次第に手を上げる農家も増えてくる―という風に年々右肩上がりに成長していきます。

まずは第一段階クリア、さあここからが正念場―
そう思っていた栄一のもとに、再び譲吉がやってきて、こう告げます。

「ウイスキー製造の為に、アメリカに住むこととなりました」

最初の別れ

急に渡米をしたいと言い始めた譲吉。
一体何があったのかといいますと、詳しくは過去記事に書きましたが、奥さん(キャロライン)の実家ヒッチ家をパトロンとして、アメリカでウィスキー製造会社を立ち上げることとなっていたのです。

つまり、譲吉の頭の中では
・日本での人造肥料会社の設立
・アメリカでのウィスキー会社の設立
それぞれを並行して構想しつつ、準備を進めていたのです。
譲吉が自ら社長として人造肥料会社を設立しなかった理由はおそらくそこにあったのではないでしょうか。

され、これを聞いた栄一は
ブチギレます。

私は其時に大に博士に不平を言ひました、此新しい事業を企てゝ左様に大きな資本ではないけれども、併し日本に一つの新事業を起したのは、君の勧めに依つて私が会社を造つて此処に至つたのである、此成功を見る前に去ると云ふことは甚だ信誼を欠いた訳ではないかと申して、或は抑留せむと欲したことが屡であります。
同上、p196
折角着手した事業を半途に棄てゝも渡米せねばならぬほどのものなら、何故当初斯んな事を始めるやうに私へ勧めたかなぞと、激しく小言を言ひもしてみた
――渋沢栄一「友人等に危まる」『実験論語処世談』第四二五

「こっちを焚き付けといて『じゃあ後は任せた』って、無責任すぎんだろ!!」

と、栄一は譲吉に対して怒りをあらわにしますが、譲吉は今が機運なのでお許しくださいと栄一に頼み込み、益田孝も栄一を必死に説得します。

併ながら博士は此事業も数年の間には必ず相当な発達を遂げる、見込は立つて居る、故に其事はそれとして、自分の目的の亜米利加に於て事業の経営を試みたい、今や其機運に向つたから是非行かなければならぬと云ふことで此方を去るも気の毒、行かねばならぬ必要もある、所謂とつおいつの御考でありました。又益田君も私を説得されて、一方から言へば困るけれども、一方から言へば博士の目的を失はせるやうになつても困るから、後の経営は他の者でやつたら宜からうと云ふ
――「追悼演説」p196,197

二人の説得を受け、栄一は少しずつ怒りを抑えていきます。

又退いて大局から稽へれば、同氏一身の為にも、又国家の為にも、此際、高峰氏を快く放してやつて、渡米さするのが私の取るべき道であらうかとも考へたので、私も遂に決心し、同氏の請ひを容れて渡米させ、その志す処に向つて進ませる事にしたのである。
――「友人等に危まる」

「考えてみりゃあ、日本人が異国の地で起業して旗揚げをする。こんなにおかしれえことはねえか。」
そんな風に思い直し、譲吉の渡米を後押しすることにしました。

こうして譲吉はウィスキー製造のために渡米、残された栄一たちは人造肥料会社発展のために励んでいくこととなります。
しかし、お互い本当の正念場はここからでした。

会社存亡の危機

渡米した譲吉のその後は過去記事に譲るとして、同時期の栄一たちの動きを見ていきましょう。

譲吉というブレーンを失った東京人造肥料株式会社でしたが、その後も着実に業績を伸ばし、なんとか黒字経営に持ち込めるかというところまできた6年目―悲劇が起こります。

なんと工場から火の手が上がり、生産工場が全焼
順調に成長を続けていたとはいえ、まだ完全に軌道に乗る前でしたので、会社の心臓部にあたる工場が焼けてしまうと言うのは致命傷でした。

この火事により、東京人造肥料株式会社の株主からももう会社を畳んだ方が良いという意見が多く上がるようになります。
「最早ここまでか…」
立ち上げから携わってきた益田も諦めようとしたとき、栄一が次のように語ります。

「挫けても挫けてもたゆまず築き上げてゆく、その決心と誠実とこそは仕事の上での大事なことである、単に会社が焼けたといふだけで仕事をやめる必要はない、私共はもつと決心をしてやらねばならない」
――益田孝「日本農界の恩人」『高峰博士』p38
「元来我々がこの事業を始めたのは、決して利益のみを目的としたのではない。其の主眼は国家の為めになる事業であり、農村振興上必要なものであると考へ、而も将来必ず有望な事業となると信じて計画した仕事であるから、如何なる災厄に遭つてもこの事業を成就させねばならぬと予てから決心してゐたのである。他日社業成功の暁には、今回の火災による損失の如きは相償ふこと容易なるは信じて疑はない。然し尚諸君が飽くまで解散を望まれるならば、最早詮方のないことである。私一人でも諸君の株式全部を引受け、借金をしても此の社業を継続経営して、必ず事業を成し遂げる決心である。」
――『大日本人造肥料株式会社五十年史』第四五

「会社が焼けたくれぇでなんだ。この会社は利益を上げることが目的じゃねえ。日本の農業の未来のためなんだ!もし諸君が解散したいってんなら仕方ねえ。私一人で株式全部を引き受けて、借金をしてでも!必ず成し遂げてみせる!」

栄一の熱い熱意に心打たれた益田は、次のように述懐しています。

実は同じく落胆されると思つた渋沢さんがこの決心であつて、自ら百方人を説き、困難をしりぞけて専心再興のことに力を尽して呉れられた、それで再び機械も購入され、会社の仕事も順調に入つた、私は会社の事のみならず度々出会したが、常に此点で大に渋沢さんに敬服し、実に自分等の及ばぬところであると知つた、事業の不振や不遇の時こそ緊褌一番、大死一番すべき時である、まことに渋沢さんは偉い。
――「日本農界の恩人」p38

こうして栄一の奮闘によって解散を免れた東京人造肥料株式会社は、その後不死鳥の如く復活を遂げ、火事から4年後の創業10年目には、当初の100倍の利益を出すまでに成長していきます。

東京人造肥料株式会社はその後も拡大を続け、名称を大日本人造肥料株式会社に変更。
現在の日産化学となります。

なお、栄一自身は会社続行の決断をした理由を次のように述べています。

「損勘定を旨く整理し得るもので無ければ真の事業家で無い」
――「友人等に危まる」

栄一の実業家としての矜持が見受けられますね。

再会

会社の立ち上げから15年後―明治35年(1902)、アメリカで化学者・実業家として大成功を収めた譲吉が日本に凱旋帰国します。
譲吉の渡米以来12年振りの再会となった、栄一と譲吉。
栄一は宣言通りアメリカで一旗(どころではない)上げてきた譲吉を益田たちとともに歓待します。

そして、今度は譲吉が栄一を連れ立ってアメリカへ戻ることに。
これが、栄一がセオドア・ルーズベルト大統領と面会したあのアメリカ初訪問となりました。

再会を果たした二人は、その後さらに大きな目標のために奮闘していきます。
それは、日米親善

(後半へつづく)

引用・参考文献
塩原又策編『高峰博士』(大空社、1998年)初版1926年
「東京人造肥料株式会社」(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』渋沢栄一記念財団、2016年)
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK120025k_text(2021-12-27)




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