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渋沢栄一と高峰譲吉

先日の回(2021/12/12放送)では、渋沢栄一が日本の実業界を代表して訪米し、セオドア・ルーズベルト大統領(テディベアの元ネタになった人)と会談する様子が描かれていました。

会談の様子は当時の記録にも残されています。
『渋沢男爵欧米漫遊報告』の「(三)大統領ルースヴヱルト氏ト会談ノ要領」をみると、ちょうど放映の会話と同じ内容部分が。

※記事中の引用文は、断りがない限り
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第25巻「3款 欧米行」
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK250008k_text(2021-12-13
から抜粋引用しております。

渋沢男爵曰ク 去月下旬桑港ニ上陸シ、シカゴ、ピッツボルグ、ヒラデルヒヤ等ヲ経テ、両三日前紐育ニ到着セリ……由来我日本ガ今日ノ地位ニ達シタルハ実ニ貴国ニ負フ所少シトセス、是我国人カ常ニ貴国ニ向テ感謝スル所ナリ
ルースヴヱルト氏曰ク 貴国近時ノ進歩ハ余ノ兼テ伝承スル所ナリ、由来貴国ノ美術ハ世界ニ冠絶スト称セラレ、又貴国ノ軍事ニ至リテモ其名声嘖々タルモノアリ、現ニ清国事変ノ後彼地ヨリ帰リタル将校等ヨリ聞ク所ニ拠レハ、貴国軍隊ノ勇武ナルハ露国・独国・仏国ハ勿論、英国ト雖トモ共ニ皆賞讃スル所ニシテ、殊ニ其行為ノ厳正ナルハ我合衆国軍隊ノ模範トスルニ足ルヘシト云ヘリ、是余ノ大ニ敬慕スル所ナリ
渋沢男爵曰ク 我国ノ美術及軍事ニ関シ閣下ヨリ賞讚ノ辞ヲ聞ク、実ニ満足ノ至ニ堪ヘス、併シ余ハ現ニ実業ニ従事スル者ナルカ、我国ノ商工業ハ夫ノ美術・軍事等ニ比スレハ其名声極メテ寂々タルノ憾アリ、故ニ余ハ今後益々奮励シテ商工業ノ発達ニ勉メ、他日再ヒ閣下ニ拝謁スルトキハ、閣下ヨリ我国ノ商工業ニ関シテ更ニ同一ノ讚辞ヲ辱フセンコトヲ期ス
ルースヴヱルト氏曰ク 男爵ノ所見ハ大ニ余カ意ヲ得タル者アリ、今後男爵ニシテ益々貴国商工業ノ発達ニ勉メラルヽニ於テハ、必スヤ其好果ヲ見ルヘキハ余ノ確信スル処アリ、之ヲ要スルニ余ハ男爵ノ所見ニ対シ熱誠ナル同情ヲ表スル者ナリ

アメリカ大統領と日本の一実業家である栄一の会談には『竜門雑誌』第一七〇号に次のような記事が。

大統領は男爵を其官舎なるホワイト・ハウス階上の書斎に延見し、懇談卅分余に渉りたり、蓋し稀有の特例たりと云ふ、 

「こんなんめっちゃ激レアな特例だってさ!」(意訳)
でしょうね。

なお、栄一が訪米したのは大統領との会談が主目的ではなく、アメリカの商工業界との交流を深めることにありました。
所謂“民間外交”です。

この訪米以来、栄一は日本の実業界の代表として度々渡欧します。
次回の内容はまさにアメリカとの民間外交についてがテーマになる様子。

本編では描かれてはおりませんでしたが、実は栄一の民間外交を支えた在米日本人がおります。

その名は、高峰譲吉

金沢の偉人の中でも、特に栄一との関係の深い人物です。
訪米中の栄一の日記を見ると、

「六月二十日……七時高峰譲吉氏ノ案内ニヨリテ当府西宮ト称スル日本料理店ニ抵ル、兼子及一行同伴ス、西宮ハ紐育ニ於ル日本割烹店ノ最上位地ニ居ルモノナリ、」
「六月三十日……本邦人十数名ニ留別ノ宴ヲ開ク、会スル者高平・内田・長崎夫妻・高峰・堀越佐藤・高橋・上野等賓主合計十八名ナリ、食卓上一場ノ謝詞ヲ述フ、高平・内田及高峰氏各演説アリ、」
「七月一日……午後二時領事館ニ抵リ、夫ヨリ堀越商会・三井物産会社・同伸会社等ヲ歴訪シ、更ニホテルエンパイルニテ高峰氏ヲ訪ヒ、」
(※太字、筆者)

と度々譲吉の名前が登場します。
この高峰譲吉の存在は、栄一にとって―日本にとって大変重要な人物でした。
それは何故か。
高峰譲吉の経歴についてざっくりと紹介します。

高峰譲吉の業績

高峰譲吉は36歳の時にアメリカに渡り、タカジアスターゼとアドレナリンという二つの薬を発明した化学者です。
 譲吉は発明した薬の特許を世界中で取得し、特許を管理する会社をつくったことから、ベンチャー企業の先駆けとも評価されています。
 また、日米外交を陰から支え日米親善大使とも呼ばれました。

■タカジアスターゼとアドレナリン
 タカジアスターゼはコウジに含まれる酵素の分解作用を利用した消化薬で、酵素を使った世界で最初の薬です。
 アドレナリンはホルモンの一種で、純粋な結晶を世界で初めて抽出したものです。アドレナリンには止血作用があるため、現在も外科手術の時などに使用されています。
 バイオテクノロジーの基本となる酵素とホルモンの分野で二つの世界初を成し遂げていることから、「近代バイオテクノロジーの父」と呼ばれています。

■ベンチャー企業家・日米親善大使
 譲吉は発明したタカジアスターゼやアドレナリンの特許を取得しました。薬の販売は製薬会社が行い、譲吉は特許料を得ます。さらに、アメリカではタカミネ研究所を設立し、日本では理化学研究所の設置を提唱しています。このような方法は現在の開発型ベンチャー企業と同じ方法で、その先駆けとも言えるでしょう。
 日露戦争の頃よりアメリカで日米親善に尽力し、日本とアメリカの橋渡し役として活躍します。ワシントンのポトマック河畔の桜は東京市が、ニューヨークの桜は在住邦人会が贈ったものですが、タフト大統領夫人と共に企画し、資金を援助したのは譲吉です。

以上、当館HPから引用(手抜き)

ということで、譲吉がどんな業績を残した人物かはお分かり頂けたかと思います。
キーワードになるのは
①「36歳の時にアメリカに渡り」
②「タカジアスターゼとアドレナリンという二つの薬を発明」
③「日露戦争の頃よりアメリカで日米親善に尽力」

の3つ。
今回は①②について確認していきましょう。

①譲吉の渡米

譲吉は何故アメリカに渡ったのか。
これについては、高峰譲吉の妻の実家が深く関連しております。
というのも、譲吉の奥さんの名前は
キャロライン・ヒッチ
アメリカ人です。つまり国際結婚。

ふたりの馴れ初めは1884年(明治17年)、譲吉(当時農商務省勤務)がニューオーリンズで開催された万国博覧会に出張した際に、下宿先のヒッチ家で出会ったのがきっかけでした。

キャロラインの母メアリーは譲吉の才能を見抜き、なんとかヒッチ家に取り込もうと画策します。
そこで当時18歳だった長女のキャロラインが、譲吉(30歳)との晩餐会に参加するようメアリーから命じられます。
「どうして私があんな(ピー「自主規制」)なんかと…」
と最初は嫌悪感を示していたメアリーでしたが、いざ横に座ると、多才で紳士な譲吉の虜に。
そのまま出張中に婚姻するというお前何しに出張に行っとんねんとツッコみたくなるような電撃結婚を果たします。

その後譲吉は一度帰国し、1887年(明治20年)再渡米した際に正式に結婚。
同船していた益田孝に新婚ホヤホヤのイチャつきを見せつけながら、キャロラインを連れて日本に帰国します。

譲吉は農商務省を辞め、実業家として会社の立ち上げに参画。その傍ら、ウィスキーの新醸造法の研究を進めていきます。

1890年(明治23年)、譲吉は養母のメアリーから、「ウイスキートラスト社との商談がまとまりそうだから至急渡米したし」という旨の手紙をもらい、日本での事業を半ばほっぽり出して(ここ重要)、渡米することとなります。

このように、妻の実家(ヒッチ家)を支持母体として、譲吉はアメリカの産業界に足を踏み入れたのでした。

実はこの時、高峰とともに会社の立ち上げに携わっていたのが、渋沢栄一益田孝でした。
この譲吉の渡米を巡って色んなエピソードがあるのですが、それはまたの機会に。

②タカジアスターゼとアドレナリンの発明

一般的に一番知られている譲吉の功績は、この2点でしょう。
あれ?ウィスキーづくりで渡米したのに薬?
と思うかもしれませんが、そこに至る経緯をざっくり紹介します。

米麹を使ったウィスキーの新醸造法を発見し、当時アメリカの最大手だったウィスキー・トラスト社に新醸造法を売り込みに行った譲吉でしたが、地元のウィスキー業者(特にモルト業者)たちの反対運動を受け、悪戦苦闘しながらセールスと醸造試験に励みます。
当時のアメリカ社会におけるアジア人移民の地位など推して知るべし…それでも結果を残せば認めてくれるのがアメリカという国。譲吉は懸命にウイスキー・トラスト社との交渉を続けました。
自らの会社を設立し、ようやく試験醸造が軌道に乗ってきたという矢先、工場が火事で全焼してしまいます。

夢も今までの苦労も、一夜にしてすべて灰に。

譲吉は「私は実に此時程失望落胆したことはありませんでした。本当に男泣きに泣きました。」(塩原又策編『高峰博士』p186)と後に回顧しています。
それでも諦めずにウィスキー醸造試験を再開しようとしましたが、譲吉の醸造法を採用するか否かでウィスキー・トラスト社が内部不和を起こし、なんと解散するという事態に。
これでは流石にもう諦めるほかありませんでした。

しかし、譲吉はめげません。
ウィスキー研究の中で発見した新たな“酵素”の働き(消化を促進)に着目し、「これを胃薬に活用できるのでは」と今度は薬づくりをはじめます。
こうして完成した薬がタカジアスターゼ(1894年)です。

譲吉はすぐさまタカジアスターゼの特許を取得し、アメリカではパーク・デービス社(現 ファイザー社)と契約、日本では三共製薬(現 第一三共)を立ち上げ、タカジアスターゼを販売していきます。

タカジアスターゼによりビジネスが軌道に乗った高峰に、パーク・デービス社からアドレナリンの結晶抽出を依頼されます。しかし、研究分野が専門外だったため、なかなか研究が進まずにいました。

明治33年(1900)、日本から上中啓三(1876~1960)という青年学者が譲吉のラボに参入しました。彼はなんとわずか半年で世界の研究者たちが苦戦していたアドレナリンの結晶抽出に成功します。
高峰はアドレナリンについて発表した論文(アメリカ)の中で、当時としては異例ともいえる助手上中啓三への祝辞を述べています。

こうしてふたつの薬を発明(アドレナリンは上中啓三)したという功績で、一躍ときの人となります。

官吏にもせよ、視察者にもせよ、又留学生にもせよ、足一たび紐育の地を踏みたる本邦人が米人に接して第一着に受くる問は「貴君は高峰博士を知れりや」といふことである。
塩原又策編『高峰博士』p78,79

アメリカで大成功を収めた譲吉は、明治35年(1902)2月、日本に凱旋帰国し、かつての会社の同士である栄一や益田孝から歓待を受けました。
5月、譲吉は栄一たちとともにアメリカに戻ります。
これが冒頭の栄一の訪米につながります。

ということで、栄一の渡米を譲吉がサポートしていた背景についてここまで紹介しました。
次回は日露戦争における譲吉の活動についてみていきましょう

ちなみに若い(41歳)頃の譲吉の写真がこちら

譲吉41歳037

…こりゃモテますわ

引用・参考文献
塩原又策編『高峰博士』(大空社、1998年)初版1926年
‘Where the Wings Grow’ by Agnes de Mile, 1978, Doubleday & Co. 山下愛子訳『高峰譲吉伝―松楓殿の回想』(雄松堂出版、1991年)
石井三雄『ホルモンハンター』(京都大学学術出版会、2012年)
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』(渋沢栄一記念財団、2016年)
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/(2021-12-13)