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渋沢栄一と高峰譲吉 日露戦争編

本日12月19日の『青天を衝け』第40回「栄一、海を越えて」は1時間拡大版で日米親善に尽力する渋沢栄一が描かれるはず。
…ちょろっとでも出てこないかなーと淡い期待をしつつ、さて今回は日露戦争をテーマに高峰譲吉の活躍を見ていきたいと思います。

伊藤博文のアメリカ説得作戦

前回、栄一が日露戦争勃発に際し、商工業界を取りまとめた様子や、小村寿太郎がアメリカの仲介のもとポーツマス条約を結んだことが描かれていました。
そのなかで、井上馨が伊藤博文の策でアメリカに仲介役を頼んでいたと触れられていましたが、この策とはどんなものだったのか。

伊藤は、大統領(セオドア・ルーズベルト)を説得してロシアよりのアメリカ世論を日本よりに転向させ、講和の仲介役になってもらうことを目指しました。
その切り札として、日本の命運をかけてアメリカを説得するために単身渡米したのが、金子堅太郎(1853-1942)でした。

金子堅太郎といえば、教科書では大日本帝国憲法の起草にかかわった人物として有名ですね。この時総理大臣だった伊藤とは深い信頼関係で結ばれていました。
その伊藤から説得され渡米することとなったのですが、金子が選ばれた理由は「大学時代、大統領と同窓だったため」という一点のみ。
早い話
「お前大統領の友達だから同窓の好で説得してね!日本の未来を頼むよ!」
という無茶ぶり。
再三固辞したようですが、伊藤も一歩も引かず遂には折れて、この途轍もない無茶ぶりを引き受けることに。

この時のアメリカにわたるまでの心境を後年次のように述懐しています。

実は亜米利加に行つて如何にして此使命を全ふするかといふことは、私には案は無い、唯 陛下の命を奉じて、臣民の一人として尽すのみと云ふ考へであつた。
――金子堅太郎「追悼演説」『高峰博士』p213

「大統領の同窓」という一点だけを武器に、日本のために身を投じる壮絶な覚悟が伝わってきます、というか想像しただけで吐きそうな状況…。

そんな金子をニューヨークで出迎えたのが高峰譲吉でした。

譲吉は金子にアメリカ国民の日露戦争観を詳細に伝えました。金子は、現状7割方ロシアびいきであるという冷徹な現実を改めて突き付けられます。というのも、まだまだアメリカにおいて日本という国の知名度は低かったことがありました。
すなわち、現時点において金子がアメリカ世論を日本よりに説得できる確率は、限りなく0に近いことが誰の目にも明らかでした。

しかし、譲吉はただ「現実は非常である」と伝えたわけではありません。在米日本人として、金子の任務遂行に全面協力する旨を打診します。
この譲吉の決意を聴いた金子は深く感じ入り、譲吉に協力を願い出ました。

こうして金子・譲吉によるアメリカ世論説得作戦がはじまります。

無冠の大使 高峰譲吉

まず、譲吉は化学者・実業家として積み上げた自身の名声・地位を利用して、全米各地で講演会を催します。また、新聞や雑誌に日本のことを紹介するなど日本の知名度及び印象を向上させるため粉骨砕身します。
また、各種業界とのパーティなどを開き、民間同士の交流を深めていきます。この時、金子の婦人代行としてパーティに出席したのがキャロラインでした。金子は後年に至るまでキャロラインのサポートを「高峰夫人の内助の功が与つての力」(同上、p216)と頻りに感謝の意を述べています。

こうした活動は、『青天を衝け』でいうところの民間外交であり、金子はこれを“国民外交”と呼びました。

金子と譲吉の約20か月にわたる国民外交の結果、当初はロシアが圧倒的優勢であった世論を、見事日本びいきに転換させることに成功しました。

金子は「若し此高峰博士と御夫人なかりせば、私はあれだけの仕事に成功することは出来なかつた」(同上、p216)と述懐し、高峰のことを「無冠の大使」と称しています。

無冠の大使とは、所謂政府から正式に派遣された外交官が有冠の大使であり、それに対して国政上何の地位にもない一民間人でありながら、国同士の政財界の交流―すなわち国民外交において重要な役割を果たす存在を指します。

金子はアメリカの外交において重要なのは国民外交だと、演説の中で頻りに述べています。

御承知の通り、亜米利加の外交は欧羅巴の外交とはまるつきり違ふ。私が亜米利加より帰つて来て、亜米利加に対しては国民外交をせねばならぬ、其国民外交の無冠の大使は高峰博士であると云ふことを言ふた所が、日本に於て大に笑はれた、又攻撃された、
――同上、p216,217

日本の外交官たちに言わせれば、外交は秘密であり、門戸を閉じた中で外交官同士でやるべきものである、と。
しかし、アメリカの世論と譲吉の活躍を間近で体験していた金子は、ウィルソン大統領が国際連盟を提唱して世界から賞賛を受けつつも国内では批判を受けて結局アメリカが連盟に加入しなかった事例を挙げつつ、アメリカにおける世論の影響の強さを軽視してはいけないと警鐘を鳴らしています。

国民外交が亜米利加には最も必要で、其国民外交をするには無冠の大使が紐育に居り、華盛頓に居り、フヒラデルフヒア、ボストン市俄古のやうな所に居つて、昼夜実業界なり、学術界なり、政治社会なり、各方面に向つて其外交を始めて、而して華盛頓の有冠大使の露払をする、下働きをする、さうして占めた地歩の上に有冠の大使が乗つて其国交を円満にする、是が即ち亜米利加の外交の秘訣である。それをよく自ら会得し実行されたのが高峰博士であって……
――同上p217,218

ここまで引用した金子の発言は、大正11年(1922年)11月に行われた「故高峰博士追悼会」で行われた追悼演説から引用しています。
その中で、高峰の死去に際し「高峰博士に代つて国民外交をする人が無い、是は真に両国の欠陥である」(同上、p218)と悲痛な叫びを述べています。

譲吉が亡くなり、栄一が亡くなり、無冠の大使が本当にいなくなった日本とアメリカの関係がどうなったのか――
それはよくご存じかと思います。

このように、金子と譲吉夫妻の奮闘によってアメリカの世論を味方につけることに成功しましたが、日本海海戦などで日本がロシアに勝利したことで、アメリカでは対日感情が応援から次第に警戒へと変わっていきます。

特に、対日感情を悪化させていたのが、日本からの大量の移民でした。
(これは『いだてん』でも在米日本人たちが如何に苦労したかについて語られていました)

こうして排日運動がアメリカ社会で深刻化していきます。

この社会風潮を変えるため、栄一、譲吉は連携しながら国民外交を繰り広げていきます。

今日(12/19)の『青天を衝け』ではそこら辺の事情が描かれると思うので楽しみですね!
次回は排日機運が高まるアメリカ社会を変えるために奮闘する譲吉たちの国民外交に迫ります。

引用・参考文献
金子堅太郎「追悼演説」(塩原又策編『高峰博士』(大空社、1998年)初版1926年)

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