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企画展 徳田秋聲生誕150年記念「『光を追うて』に見る金沢」

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令和3年度企画展「徳田秋聲生誕150年記念『光を追うて』に見る金沢-徳田秋聲と桐生悠々-」(4/24-9/12)に関する記事をまとめたものです。
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#桐生悠々

物書きってレベルじゃねぇぞ!―若き秋聲と悠々の挫折

次期企画展の準備にかまけて気づけば10日近くも更新をサボっておりました…。 えー前回青春篇最終回とのたまいながら前半だけで区切っちゃいましたが、今度こそ最終回です。 さて、小説家を目指して上京した秋聲と悠々は、尾崎紅葉の門下生となるために紅葉宅を(アポなしで)訪ねます。すると、中から出てきたのは玄関番をしていた泉鏡花でした。 これには秋聲もビックリ…というわけでもなく、弟子入りしているのは事前に把握していた模様。 いずれにせよ、玄関番が知り合いだったわけですからこれですん

そうだ東京に行こう―秋聲と悠々の青春アミーゴ―

長らく本編(?)をお休みしておりました。学生時代の秋聲と悠々について、石川県専門学校→第四高等中学校の順でみてきましたが、今回は青春編いよいよ最終回。 前回までのあらすじ 数学と化学が大の苦手だった秋聲は次第に文学への情熱から、落第と父の死を契機として学校を退学。親友の桐生悠々とともに尾崎紅葉(当時の売れっ子小説家)に弟子入りするために上京して尾崎邸を訪問します。 そこで玄関番として現れたのは、後輩の泉鏡花でした。 少し刻を遡って、秋聲たちが金沢を出発して東京にたどり着く

番外編 桐生悠々の筆禍武勇伝(?)

(※この記事は、旧雑報で2021年 7月22日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。) 前回の雑報で「悠々の、周囲が熱狂してるときに一歩引いた視点から『言わねばならぬこと』を申す性格の片鱗を感じます(これについては番外編で…)」と宣言しましたので、今回は悠々のスタンスについて触れていきましょう。 悠々は信濃毎日新聞および新愛知主筆時代に書いた記事で様々な抗議・筆禍事件を起こしています。有名なのは、信濃毎日新聞を辞める要因になった「関東防空大演習を嗤う」ですが、もうひとつ

秋聲と第四高等中学校②

(※この記事は、旧雑報で2021年 7月17日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。本企画展は8月31日(火)まで休館のため中断中-会期9/12迄) 前回は秋聲在学中の第四高等中学校の先輩陣や先生方、同級生にスポットを当てましたが、今回は秋聲が小説家を目指すきっかけになった出来事や悠々との関係を中心に掘り下げていきたいと思います。 秋聲が小説家を志す切っ掛けとなったエピソードとしては、まず佐垣帰一との交流が挙げられます。彼は秋聲の先輩にあたり、「井上や清水などのグループ

秋聲と第四高等中学校①

(※この記事は、旧雑報で2021年 6月30日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。本企画展は8月31日(火)まで休館のため中断中-会期9/12迄)  前回は秋聲の石川県専門学校時代についてざっくり触れましたが、今回は第四高等中学校時代のお話を少々。 明治20年(1886)に設立した第四高等中学校には、石川県専門学校の生徒も多数入学しました。本科(2年)、予科(3年)、補充科(2年、1887年設置)という構成であり、木村栄が本科1年、三たろうと山本良吉と井上友一が予科1

桐生悠々と手紙

(※この記事は、旧雑報で2021年 5月31日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。本企画展は8月31日(火)まで休館のため中断中-会期9/12迄) いよいよ5月も最終日。今日も今日とて資料整理に明け暮れております (このとき一度目の臨時休館中※2021/8/8追記)。 桐生悠々のものはひと段落ついたので北条時敬関係資料を引き続き整理中。本や掛け軸のほか、手紙や本の注文書・領収書の類がたくさん残されています。特に手紙のやり取りや購入歴は、その人の行動や人となりを知る上で