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秋聲と第四高等中学校①

(※この記事は、旧雑報で2021年 6月30日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。本企画展は8月31日(火)まで休館のため中断中-会期9/12迄)

 前回は秋聲の石川県専門学校時代についてざっくり触れましたが、今回は第四高等中学校時代のお話を少々。

明治20年(1886)に設立した第四高等中学校には、石川県専門学校の生徒も多数入学しました。本科(2年)、予科(3年)、補充科(2年、1887年設置)という構成であり、木村栄が本科1年、三たろうと山本良吉と井上友一が予科1級(3年生)に入学します。専門学校の初等中学科だった秋聲と悠々、安宅弥吉は設立の翌年に設置された補充科に入学することになります。

校風は、金沢士族の身内で固められた石川県専門学校とは異なり、中央の特に薩摩閥による武断的教育方針が打ち立てられます。

当時の文部相森有礼(薩摩)は四高開校式の挨拶で
「維新が成功したのは薩長のおかげで加賀は何もできてないよね。不甲斐ないからこの学校で優秀な生徒を育てようね!」(意訳)
と演説して結果斬りかかられそうになったという逸話も。
イヤミか貴様ッッというかそのうち本気で斬られるぞ!と心配になります(本当に刺殺されちゃうんですが)。

こうした武断的風潮に真っ向から反発したのが西田幾多郎と山本良吉でした。2人を筆頭に教師陣のうち「学力の十分でない先生」(原文ママ)に難問を出して困らせたり、体育教師に議論をふっかけて授業をサボったりとやりたい放題。

結局両者は馴染めないまま中途で退学しています(大拙は1年目に金銭的事情で退学)。この時一緒にサボったりノートに落書きしていたのに首席で卒業したのが作太郎でした。またいきなり本科に入学してストレートで卒業生第一号になった木村栄もこの時期在籍しています。

このようにアクの強い先輩陣がひしめき合っている四高生ですが、秋聲はどんな学生生活をおくっていたのでしょうか。

成績について、英語と国語は優秀だったようですが、代数や化学がからきしだったらしく、それが後の退学理由の一つにもなっています。なお、秋聲は専門学校→四高の校風の変化をどう思っていたかというと、身長順に並ぶのが嫌で体操をサボったり、生徒監を「ライオン」とみんなで呼んでいたりと微笑ましい(?)エピソードがあるくらいで、特に疎ましくも思ってなかったようです。

先生たちとの関係をみると、山本良吉が可愛がられた三宅少太郎(史学)とは反りが合わなかったらしく、歯にきぬ着せずというか段々筆が乗ってきたな…?と察するくらいの言いたい放題具合。幾多郎や良吉など信奉者も多い北条時敬(数学)も専門学校時代も含め在籍していたはずですが、特に触れられていないのはやはり数学が苦手だったからかもしれません。

また、小説の世界を目指すようになったのはこの四高時代で、様々な級友との親交を通して文学の世界へどっぷりはまっていきます。

貸本屋や古本屋にある近松門左衛門や井原西鶴といった古典から森鴎外や坪内逍遙など近代文学まで様々な書物を読み漁ったと言い「決して学問的な文学研究者ではなくて、寧ろアイドルな耽溺者」だったと評しています。

こうした学生生活の仲で「いつとはなし双方から接近し合って」生涯の友となるのが桐生悠々です。次回は秋聲と悠々の関係を中心に、その学生生活を掘り下げていきましょう。