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偉人館でつながるご縁-山本良吉と藤岡作太郎-

偉人館に届いた一通の手紙。
それは偉人のご遺族からのものでした。

偉人館のテーマは「近代日本を支えた偉人たち」ということで、明治~昭和期にかけて活躍した金沢ゆかりの偉人たちを広く展示・顕彰しています。
同時代を生きていた関係で、生前交流の深かった偉人たちも少なくありません。

特に「明治三年の奇跡」のコーナーの偉人たち―北條時敬・鈴木大拙・藤岡作太郎・西田幾多郎・井上友一・山本良吉―は、石川県専門学校・第四高等中学校時代に北條時敬から教えを受けた生徒たちであり、彼らの交流は生涯を通して続けられました。

今回お手紙を下さったのは、旧制武蔵高等学校の校長を務めた熱血教育者・山本良吉のご遺族の方でした。
「長年の念願」であったという藤岡作太郎のご遺族との交流及びツーショット写真がお手紙と一緒に同封されていました。

良吉(旧姓金田)と作太郎は石川県専門学校時代からの付き合いで、鈴木大拙らと『明治余滴』という文学同人誌を発行。その後入学してきた西田幾多郎たちと共に青春を謳歌していきます。
謳歌といっても、それは中々にアグレッシブな意味で、ですが。

西田幾多郎哲学記念館さんの企画展チラシでも使われたこちらの写真
一番右で「頂点立地自由人」と書かれた紙を持っているのが良吉。
一番左の童顔が作太郎。
作太郎の後ろの若者が持っている紙には「Destroy Destroy」。
この写真が撮られた日付(明治22年2月11日)は大日本帝国憲法発布の日。

反骨精神全開です。

というのも、以前の雑報でも書いたように明治前半の衰退の一途をたどる金沢では薩長に対する反発心が醸成されていました。
石川県出身者で構成されアットホームな環境だった石川県専門学校が、薩摩出身の校長及び武断的校風に変更されたことに、良吉や幾多郎を筆頭とした学生たちが強く反発します。
上の写真はそうした金沢の学生たちの中央政権に対する反抗心が如実に表れています。

では、実際にはどんな反発をしていたのかというと、
・兵役体操は屁理屈をつけて休む ←サボタージュですね
・授業中にヒソヒソ話をする ←かわいいですね
・「学力の十分でない先生」(原文ママ)に難問を出して
 答えさせてからミスを指摘する  ←怖い

こんな風に素行不良を繰り返しながら、写真を撮った年に良吉は四高を自主退学します。この時一緒にサボったりノートに落書きしながら首席で卒業したのが作太郎でした。

良吉退学後、ふたりの関係は途切れた―ということはなく、その後も深い交流を続けていきます。

後列右:ベントン 後列左:良吉 前列右:幾多郎 前列左:作太郎

こちらの写真は明治24年(1891)7月に、四高の教師だったベントンの送別の際に撮ったものですが、このうち良吉と幾多郎は自主退学済。
そして、これが(当館所蔵の中では)良吉と作太郎が一緒に写っている最後の写真です。

良吉と作太郎の交流はお互いが社会人になってからも続きますが、別れは突然やってきました。
明治43年(1910)2月3日、作太郎は持病の喘息から肺炎を患い、遂に回復することなくこの世を去ります。享年39。

突然の親友の死は、良吉にとって相当応えたようです。

以下の文章は、作太郎の三回忌に当って刊行された『藤岡東圃追憶録』(1912年)に収められた良吉の寄稿文です(異体字は新字体に変更)。

一月の廿九日に「少し気分が悪い、春になったら早く逢いたい」と言ってよこした其絵葉書を、見たか見ぬかに思いがけなく死去の電報を受取った自分は、藤岡君については何も言ったり書いたりしたくない。当時の自分の気持は、丁度強い光に打たれた後に、暗いんだか明るいんだかわからぬと同様であった。程経てだんだん遺稿の出版となり、伝記の作成となったので、自分はぽつぽつ旧い事共思い出しては、作成者たる藤井教授に御話した。自分は藤岡君の事については矢張筆取る気にはならなかった。
……(中略)……
藤岡君が四十一年に最終に京都へ来た時、丁度この通りにさがしあるいた。自分は其時橋の真中がよいと言ったように覚えて居るが、いま見ると少し違う。此新しい考を、アア君が居らば話したいにと思いだしたれば、人群集の真中で、たまらず寂しくなった。一枚の絵葉書を買って、此気持を歌にでもして未亡人に告げたいと思ったが、習わぬ経の誦めよう筈もない。君あらば、歌にもならぬ歌を「夫や何だい」となぶってくれようものを、君の説明も、君の批評も、君の言語も、君の歩調も、逝いても逝いても帰り来る此水と共に、絶えず帰り来るが、君は永遠に帰り来ぬ。
 君は真に意地が悪い男であった。高等学校時代に、授業時間中にふと模様のまねを書いた、夫を君が見て、「夫はなんだ、まづい」となぶった。君は絵は上手、自分は下手の中にも入らぬ。後になっても、字、歌、文、何でも、時々同様にあびせかけられた。どうすればよいかと聞くと、能く直してくれた。自分は中学校でも高等学校でも国語は少しも学ばなかった。夫が少しでも仮名遣などわかる様になったのは、全く東京で君と二度まで同じ下宿に居った御蔭である。自分は殺風景な無趣味な人間である。夫が時々名所に遊んだり、美景を探ったりする様になったのも、全く同室の御蔭である。今でも東京へ行くと必ず一度百花園を見ぬと気がすまぬ。君と一室に居なかったならば、百花園の名も知らずにすんだろう。東京へ自分が出る時でも、京都へ君が来る時でも、必ず展覧会へ連れられ、絵画等の説明を聴かされた。自分は今でも絵の事などは全くわからぬが、夫でもわからしたいと思う様にしたのは全く君である。
……(中略)……
 君は研究熱心であったと同じく、友人には誠に深切であった。自分が絵葉書が好きなので時々送って来る。只送るのではない。一々何か趣向の異った意味のあるのを送る。例の歩き方で絵葉書屋の前まで来、根掘り葉掘り調べて、一枚択りに択り出してよこすのかと思うと、厚い情が紙の面に盛りこぼれる心地して、見る毎になつかしい。さるにても纔に絵葉書によって君を思わねばならぬ今となっては、情の籠る絵葉書こそ却って恨の種子である。京都の色、都の花は君なくて何の趣があろうぞ。書くまい書くまい、藤岡君の事はどうしても書きたくない。(四月十一日)

『藤岡東圃追憶録』pp37-pp40

親友を失った良吉の、その死を実感したくない苦しみが伝わってきます。

作太郎の死から32年後の昭和17年(1942)7月12日、良吉は71年の生涯を閉じます。

頂点立地自由人の写真から133年、ベントン氏送別写真から131年、永遠の別れから112年―
親友同士のご子孫の縁がつながったこと、偉人館としてもとても嬉しく思います☺

なお、お手紙と一緒に同封されていたツーショット写真ですが、見た瞬間

「か…カッコいい……!!!」

と興奮してしまいました。
大切に保管させていただきます🙏

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