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秋聲と東山の旧宅

ご存じの通り、休館日が9月いっぱい延長となりました。
9月25日から予定していた企画展も早速延期になりましたが、10月1日(金)からの開催を目指して鋭意準備中です!

さてさて、前回ト一亭の関係でご紹介した『石川県下商工便覧』(明治21年刊)ですが、実はこの中に秋聲と縁の深い建物が載っています。
それがこちらの「花月庵」(料理商 金澤御徒町 花月庵)

花月庵1

実は、こちらの建物は元・徳田邸…すなわち徳田一家が住んでいたお屋敷なのです(!)
土塀、建物の数、庭園といい、元は立派な武家屋敷であったことが読み取れます。
絵の右奥に見える川は浅野川として、方角的に町は城下で山は白山でしょうか。実際は殆ど見えないのですが、不可能を可能にするのが絵の強みですからね。単純に遠景の山々を描いただけの可能性もありますが…。

『北陸三県実況案内』(明治36年刊行)にはト一亭同様、明治期の写真が掲載されています。

北陸三県実況案内2

(より高精細なものはこちらをご覧ください。)

徳田一家がこの地へ引っ越してきたのは明治16年頃、二度目の転居の際でした。貧乏士族(失礼)が住むには大変立派な屋敷に見えますが、どうやら父の雲平が公債で購入したものらしく、当時の士族層が公債によって如何に潤っていたか、また大屋敷が空き家と化していた(=中上級武士の県外転居)かがうかがい知れます。
この時の様子を、秋聲は次のように語っています。

 その頃この城下町に、黄金の洪水が氾濫していた。
 と言うのは、武士の俸禄が現金や公債に換算されて、彼等の懐へ流れ込んだからで、……(中略)……長いあいだ扶持に頼って来て、明日のことも考えず、貨殖の事にも疎いうえに、泰平に馴れて、衣服や持ち物に贅を尽くし、酒や料理に味覚の洗練された人達もこの城下には相当多かった。

秋聲さんの辛口評が冴え渡ってますね。こうした好景気(最後の灯火ともいう)にあやかって、東山界隈では秋聲も頻繁に通ったという芝居茶屋(戎座)が出来たりと、活気ある雰囲気が醸成されていました。
結局、全国の士族授産失敗の例に漏れず、金沢士族も困窮していくのですが…(ここら辺の話は過去雑報「秋聲と悠々が過ごした金沢―『光を追うて』にみえる影①②」をご覧ください)。

話を戻しましょう。
秋聲は東山での生活を気に入っており、『光を追うて』の中でも4回の引っ越し先の中で最も詳細に触れています。
この屋敷についても以下のような描写が。

平家建てのその家は、さして広くはなかったが、門構えといい築地といい、今迄の家とは比べものにならなかった。皆は八升成りといっていたが、杏に似た淡紅い花の咲く、二抱えもある梅の大木が前の路地庭に盤居しており、勝手元から土間をぬけて出られる裏の庭には大きな柿の木が二本あった。

秋聲が少年期を過ごしたこの屋敷は、徳田家の転居後花月庵という料亭に変わり、現在は東山河畔観光駐車場となっています。敷地には「徳田秋聲旧居跡」という立て看板が佇んでいます。

この旧宅跡に接する浅野川沿いの道は「秋聲のみち」と呼ばれ、旧宅跡から梅の橋方面へ行くと、徳田秋聲記念館さんに到着します。梅の橋から対岸に渡ると、同じく浅野川周辺で育った「鏡花のみち」へとつながっています。

金沢は天災、戦災に巻き込まれておらず近世以来の街並みが残されているため、秋聲が歩いた東山の道をなぞることも出来ます。世情が落ち着きましたら、『光を追うて』を片手に、東山・浅野川周辺を散策してみませんか?

…ということで、本日が本来ウチの企画展徳田秋聲生誕150年記念「『光を追うて』に見る金沢」会期最終日でしたので、今日まで『光を追うて』関係のネタを書き連ねてきたわけですが、一旦ここで一区切りとします。

またネタを思いついたら、今後も不定期に更新していきたいと思います。生誕150年はまだまだ続きますからね!

次回の雑報からは、次の企画展「ホップ・ステップ・ジャンプ!―跳ぶ哲学者 大島鎌吉」の主人公・大島鎌吉をクローズアップしていきます。
引き続き偉人館雑報をよろしくお願いいたします!