秋聲と悠々が過ごした金沢―『光を追うて』にみえる影①
(※この記事は、旧雑報で2021年 4月30日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。本企画展は8月31日(火)まで休館のため中断中-会期9/12迄)
企画展 徳田秋聲生誕150年記念「『光を追うて』に見る金沢-徳田秋聲と桐生悠々―」が始まりました~!
「そのうち行こう」なんて思っていると気がついたら「あれ?期日過ぎとる…」となるので(経験談)、「思い立ったが吉日」で足をお運びいただければ幸いです。
(なんて当時書いてたら、二度も臨時休館になっちゃいましたよ(2021.8.8) )
雑報でも企画展の情報をどんどん発信していきたい!のですが、ここで内容をしゃべりすぎると行く意味が薄れてしまいます。それじゃあ本末転倒。
ですので、今後は「企画展をもっと楽しむため」の情報(時代背景や展示史料などの補足)をチマチマと紹介していきます。
今回のテーマは、「明治前半の金沢」 。秋聲と悠々が少年期を過ごした明治10年代までの金沢について見ていきましょう。
今から150年前というと明治4(1871)年、廃藩置県が断行されて金沢県が誕生した年です(石川県は翌5年から)。百万石の城下町として栄えていた江戸時代から一転、明治の金沢は武士の失職とそれに伴う職人・商人の需要低下による経済不振が深刻化。明治維新の光と影といえましょうか、経済不況と他県への人口流出による城下の衰退など辛く大変な時代でもありました。
このとき、衰退する金沢に歯止めをかけるべく、殖産興業を推進したのが長谷川準也(1843-1907)です。
士族身分である準也は藩祖前田利家を祀る尾山神社の建立(明治6年、神門完成は8年)や、金沢製糸場(明治7年)に始まり撚糸会社・銅器会社など20余の会社を創業するなど、困窮する士族・職人に仕事の場を供給し、金沢の復興を目指して尽力しました。後に二代目金沢市市長も務めています。
こうした準也の活動を支えた大工が津田吉之助(1826-1889)です。
津田式力織機(絹動力織機)の発明で知られる津田米次郎(1862-1915)のお父さんです。吉之助は淳也の要請で東京や富岡製糸場を見学し、尾山神社神門、製糸機械、撚糸機械を建立・製造しています。
準也の各種事業は明治十年代に松方デフレの影響を受け頓挫してしまいます(無常)。準也以外でもこの時期士族がおこした事業は次々頓挫し、地力のない中下級士族は破産に追い込まれていきました。
準也のように市議会で活躍する士族も数多くいましたが、彼らも一枚岩ではなく、度々内部抗争に発展、市も財政が貧弱だったこともあり、鉄道の敷設や電気工事などの事業もなかなか進みませんでした。
殖産興業はことごとく失敗、市議会では士族同士の派閥争いが苛烈化、人口は年々減少、貧困率は増加の一途と、さながら地獄絵図のよう。こうした中で金沢のために尽力する民間人も多くいました。
長谷川市長時代に頓挫した市営発電所の設置は森下八左衛門(1861-1943)に引き継がれます。八左衛門は辰巳発電所を建設し、金沢に初めて電灯をともします。小野太三郎(1840-1912)は私費で小野救養所を設置し、貧困層の救済に尽力します。この施設には商業に失敗して困窮した士族も多数入居しました。
金沢の衰退に歯止めがかかるのは、学都・軍都として発展しはじめる明治30年代まで待たなければなりませんでした。秋聲も悠々もその頃には東京に出ていますので、その青春時代は衰退する金沢で過ごしていたことになります。
秋聲の目に当時の金沢はどのように映っていたのでしょうか。次回は、秋聲が見た金沢士族の暮らしぶりに触れたいと思います。
ちなみに、上で列挙した尾山神社や製糸場、撚糸会社、銅器会社は展示中の『金澤勝地賑雙六』(玉川図書館近世史料館)にも描かれていますので、是非探してみてくださいまし。(つづく)
参考文献
金沢市史編さん委員会編『金沢市史 通史編3 近代』(金沢市、2006年)
「愛蔵版 ふるさと人物伝」編集委員会編『愛蔵版 ふるさと人物伝』(北國新聞社、2010年)