②ロサンゼルスオリンピックじゃんねー!!(2/3)
田畑「国が豊かになればスポーツにも金が行き届く、富める国はスポーツも盛んで国民の関心も高いんです。先生方も、スポーツを政治に利用すりゃあいいんですよ、金も出して、口も出したらいかがですか?」
――(第26回「明日無き暴走」より)
まーちゃんの人生の岐路ともなった、高橋是清との交渉は1928年アムステルダムオリンピック参加への資金繰りに端を発します。オリンピックへの参加には莫大な経費が必要であることは、初参加のストックホルム大会から度々示されていましたが、まーちゃんは政治家をスポンサーとすることで解決。(後半での伏線回収(?)には痺れました)
かくしてアムステルダムオリンピックに無事選手を派遣できることが決まり、代表選考会が催されます。代表枠を目指す若者の中には、関西大学1年生になった大島鎌吉もいました。
陸上競技の先輩達―織田幹夫・南部忠平・人見絹枝(第26回)
代表選考会で、跳躍選手(走り幅跳び・三段跳び)の枠はふたつ。大島も果敢に挑みますが、ギリギリで届かず代表選考から落選。アムステルダムオリンピックに出場することは叶いませんでした。
大島を抑えて代表選手に選ばれたのが、織田幹夫、南部忠平(1904-1997・北海道・早稲田)でした。彼等は大島が金商時代からしのぎを削ってきた戦友(ライバル)たち。どちらも当時早稲田大学に通っていました。
大島はあと一歩届かずということで、アムステルダムの話はおしまい!
…と、言いたいところですが、実はもう一人大島と関係のある代表選手がいました。
それは、人見絹枝(1907-1931、岡山、二階堂体操塾)。
「いだてん」視聴者の皆様ならご存じ、傑作回と名高い第26回「明日無き暴走」の主役です。役者は菅原小春さん。
女性アスリートの未来を背負いつつ、本命の100mが準決勝敗退。このまま日本に帰れないと800mに出たいと号泣しながら訴え、見事銀メダルを獲得した姿に心打たれた視聴者も多かったかと思います。
実はあそこの下り、まったくの創作という訳ではありません。
今回紹介するのは、人見絹枝が生前に著した自伝・日記をまとめた、
織田幹夫・戸田純編『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』(山陽新聞社出版局、1983年)。
この中に、まさにあのシーンが出てくるのです。
また、この著作(以下『炎のスプリンター』)の中には、大島との交流も描かれています。
そこで今回は、『炎のスプリンター』を中心に、アムステルダムオリンピックを見ていきましょう。
…主人公(大島)の影が薄くなるけど良いのかって?
ほら、大河って前半は主人公より周囲のエピソードで引っ張ったりするじゃないですか。
さて、当時大阪毎日新聞社に勤めていた人見が大島に出会ったのは、昭和3年(1928)3月。代表選考会を間近に控えた時期でした。
三月二十日 晴
肉食多し、睡眠回復す。
八百米ジョグ。二百米ウォーキング。体操三分間。スタート五十米四回、六十米二回、二百米一回、百米十三のペースで一回、四百米ジョグ。
大変調子も良くなってきた。…(中略)…ジャンプ界に将来を非常に望まれている関大の大島さんが丁度居合わせたので、その大島さんとスタートの練習をした。
――『炎のスプリンター』p195
以上、大島と人見の交流でした。
Q.これだけ?
A.はい。
ここで注目したいのは、人見と大島が顔を合わせる合同練習場が大阪にあったということ。他の日記の記述から、おそらく大正12年(1923)にできたばかりの大阪市立運動場(現 八幡屋公園)と思われます。規模は当時東洋一と呼ばれていたとか。代表選考会もここで行われました。
この巨大な運動場には関西の陸上競技選手たちが練習をしに集まっていたようです。
大島を関大に引き込んだ岸源左衛門(昭和3年は卒業して関大コーチ)とも知り合いだったようで、次のような記録がみえます。
三月十日 晴
…(中略)…今日は久し振りにシーズン最初の百米のタイムを取ってみることにした。…(中略)…岸さん(関大出で嘗て中距離の第一人者であった人)がタイマーになって下さった。十二秒七、残念……、残念……。足首の関節が十分直ってくれさえすれヴぁこんな事はないだろうに。…(中略)…
こんなことなら百米より八百の方がいいのではなかろうか。岸さんは木下先生の注射を切に勧めて下さるし、湿布も勧めて下さる。木下先生に診察してもらって駄目だと言われたらどうしよう。岸さんは百米がもし駄目なら、八百をやっても遅くはないから、スケジュールぐらいは作るし、幾らでも練習の手伝いはするからと言って下さる。先づ木下先生に早く診てもらうことにした。折角、冬の間あれだけ努力しながら、その努力がかえって害となったかと思うと泣きたくなる。…(攻略)…
――『炎のスプリンター』P189-190
常に医学書を持ち歩いていたという岸らしい行動と人となりが伝わってくるエピソードです(この時から伏線のように100mと800mの話が出てきていますね)。
なお、岸に勧められた注射によって、足の怪我は回復し、結局100mを軸とした練習を続けていきます。
1928年アムステルダムオリンピック
大島は出場できませんでしたが、大島と関わりの深い織田・南部、そして人見が陸上競技選手として出場することになりました。
しかし、到着早々選手たちに最大級の危機が迫ります。
ザンダムという町のホテルに宿泊することになった日本選手団一行(選手村ができるのは次のロサンゼルス大会から)。そこで待ち受けていたのは、「パン、ミルク、ソーセージ、チーズ、キャベツの酢もみ」の三食エンドレスリピート。
朝食のメニューならまだしも、三食リピートとなるとコンディションが大事なアスリートたちにとって死活問題。織田幹夫(松川尚瑠輝さん)は練習でどんどん記録を落とし、人見は「楽しかるべき三度の食事は苦になるばかりでした。」(p244)と語っています。
あまりの惨状に、大会の役員たちが気を利かせてくれたようで、数日後には日本人コックと日本食が届き、ようやく「練習以上に楽しかった」(p244)食事時間に変わったようです(練習より楽しくない食事時間とは一体…)。
しかし、本当の試練はここからでした。
金栗「引退ばした今、オリンピックの何がいちばんキツカかといえば、国民の期待と、それば裏切ってはならんというプレッシャーばい。メダルば獲れんで帰国して、報告会の舞台で針のムシロにされる。とても女子に耐えられるもんじゃなか」
――第26回「明日なき暴走」より
ご存じのとおり、人見は本命の100m走が振るわず準決勝敗退。この時の感情を以下の状に語っています。
『何ということだ、負けたのか』と、何処からか大きな声で叱られるような気がした。もう目の前は真黒になって、奈落の底に落ちたような気持であった。…(中略)…幾ら泣いても、もう如何ともすることは出来ないのであるが。ああ、二年間の努力も遂に恵まれなかった!あの寒さ厳しい冬の日や炎熱焼くが如き夏の日の練習は何の為になしたのか。ああ、すべては終わってしまった。私にはもう、すべての幸せはなくなってしまったのだ。
――『炎のスプリンター』p255
男子の選手等は各自の定められた種目に負けたとて、日本に帰れないこともない。私にはそのようなことは許されない。百米に負けました! と言って日本の地を踏める身か、踏むような人間か! 何物かを以て私は、この恥を雪ぎ、責任を果たさなければならない。
――『炎のスプリンター』p256
人見の深い絶望と覚悟が伝わってきます。そして、人見が挽回できるチャンスのある競技は、800m走を残すのみでした。
勿論、八百米を走るだけの力は持っていない。出場するだけ恥になる。しかし、私はもう勝つ負けるは問題ではなかった! 走るだけ走ってみよう。八百米走り抜けたならどうせ斃れてしまうに決まっているが、斃れるまでやってみようと決心した。
――『炎のスプリンター』p257
文字通り決死の覚悟で竹内広三郎監督(劇中では野口源三郎(永山絢斗さん)がその役割を担っていました)に懇願。
その様子をみていた織田は以下のように回想します。
世界の強豪を相手に一度も走ったことのない八百メートルを走るというのだから竹内さんもその無謀を説いて反対した。
しかし人見さんは、百メートルの失敗では、日本に帰れぬと泣いて訴えたので、竹内さんも認めざるを得なくなった。
――織田幹雄「人見絹枝さんの思い出」『炎のスプリンター』収録
人見の覚悟を知った監督らは八百米への参加を許可し、作戦を立てていきます。
この時、エース織田も含め日本勢はなかなか結果が振るわず、宿泊所には重い空気が漂っていました。
八百米の予選を無事通過した人見は、決勝の前日、ベッドの中でひたすら神に祈りを捧げます。
『神様! 私は倒頭ここまで来て、あれだけ苦心し、あれだけお祈りしお願いした百米に、あとかたもなく破れてしまいました。もう私は神様から、スポーツに対する私の運命を引取られたのかわかりません。しかし神様! 私に今少しの運命がありますならば、どうか明日の戦い、ただ一度! 走らせていただきたいものであります。ただ一回でよろしゅうございます。私の体に、どうか明日一回走る力を与えて下さいませ。明日、もし一回走らしていただいたなら、あとはどうなってもかまいません』
――『炎のスプリンター』p263
運命の8月2日
この日開催されるのは、800m決勝と三段跳び決勝。
会場に向かう車内は、なかなか結果を残せていないことで重苦しい空気が漂っていました。
運河を渡りながら、いつも無口な、あの織田さんが誰にいうともなしに、『おい! 今日負けて帰るのであったら、帰りには此の河の中にはまった方がましだぜ』
――『炎のスプリンター』p265
こんな陰鬱な空気が流れていましたが、会場に着いてからは別。各々気持ちを切り替えていきます。
いよいよ800m決勝に向かおうとする中、南部忠平(池田倫太朗さん)から声をかけられます。
『人見さん! しっかりやれよ。僕なんか都合よく行ったら一等と二等がとれるかわからない。今、織田君が一等で、僕が二等なんだから……しっかりやれよ』と、南部さんの言葉。私もこの言葉に励まされて、八百米のスタートの所に歩を運びました。
――『炎のスプリンター』p266,267
そして、いよいよ800m決勝がスタート。人見は竹内監督から受けたアドバイスを参考に必死に手を振りながら走って走って走り抜きます。
ゴールが間近になる頃にはもはや記憶がなかったようで、そのままゴールしてバタリと俯せに倒れ、意識を失ってしまいます。
再び起こされて肩にせられたのを見ると、南部さんと織田さんの二人!
――『炎のスプリンター』p271
全力を尽くした人見は織田幹夫と南部忠平に抱えられながら、会場を後にします。
ようやく朦朧とした意識が戻ってきた人見の目に入ってきたのは、三本のマストに掲げられた日の丸の国旗。800m銀メダルを獲得したのです。
ああ! これで幾分の責任を果たしたのだ! よく走れた! もう思うこともない。果し得た心の喜びに、止め度もなく涙が出ます。
――『炎のスプリンター』p271
この人見の涙を眺めていた織田・南部は「この光景に打たれた私達は、よし三段跳びでがんばるぞと話し合った。」といい、織田は三段跳びで金メダルを獲得します。これが日本人初の金メダルとなりました。
こうして数々の好成績を残してオリンピックは終了。しかし、人生はこれからも続きます。
「いだてん」では描かれなかった、24歳という若さで亡くなる人見絹江のその後の生涯は、『炎のスプリンター』にしっかりと描かれています。
彼女はこの後も数々の苦難と闘っていくことになるのですが、その内容は是非ご自身の目でお確かめください。
なお、人見が息を引き取った日は、800m走決勝と同じ8月2日でした。
後年、大島はプラハの国立墓地にある人見絹江の碑を訪れています。
大島が大阪毎日新聞社に入社するのは1934年―人見が亡くなった3年後です。練習を共にしたこともあり、陸上・会社の先輩でもある人見絹江の人生に大島は何を思ったでしょうか。
さて、アムステルダムオリンピック編も終わったので、次回いよいよロサンゼルスオリンピック編ですが…
今回長すぎるじゃんね~~~~!!!
筆が乗るだろうとは言ってましたが、引用が多いとはいえ前回の倍以上の文量に…。
次回はもう少しコンパクトにまとめていきたいです(じゃないと終わらない…)
次回:オリンピックは参加することに意義がある
参考文献
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
織田幹夫・戸田純編『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』(山陽新聞社出版局、1983年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)