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渋沢栄一と金沢の偉人たち

金沢ふるさと偉人館

この記事は2021年 6月25日に旧雑報に掲載したものです。ちょうど話題が出てきたので再掲

 筆者が毎週楽しみにしている大河ドラマ『青天を衝け』。『いだてん』の時も思ったのですが、近代史は資料がたっぷりあるので「え!?それ創作じゃなくて資料あるの!!?」という驚きがいっぱいで新鮮です。

 もちろん“ドラマ”ですので史実とは違う点もありますが、歴史に興味関心を持ってもらうきっかけにもなる人も多いのでは(自分は俳優さんを覚えるきっかけになっています)。

 今回のように近代史が舞台だと「ウチの偉人さん出てくるかも?」と注視してしまいます(『いだてん』では大島鎌吉が登場)。近代史に興味がわいたら、金沢ふるさと偉人館へレッツゴー👍

 さて、仕事柄近代史のドラマが話題になると、それ関連の講演の依頼がままあります。先日も講演会で渋沢栄一と金沢の偉人についてお話する機会があったのですが、その時に頂いた質問でその場ではお答えできなかった点について、講演会の補足とともに記しておきます。

Q.渋沢栄一が子爵となったのは何故?
 渋沢栄一について調べている際「へ~子爵に上がっとるんか凄いな~」と思っただけで理由は調べなかったんですが、見事に質問を頂きまして答えに窮しました(自業自得)。あんまり爵位や華族制度も詳しくないためこれは良い機会と調べてみると、特異な事例だったことが判明!

 栄一が男爵に叙されるのは明治33年(1900)60歳の時、そして子爵への陞爵は大正9年(1920)、80歳の時です。陞爵理由は「国家に対する多年の勲功」(『竜門雑誌』第388号)。当時民間(実業家など)で子爵以上になった人は皆無でしたので、この陞爵は異例中の異例といえます。男爵になってから子爵までの20年間も栄一は精力的に活動を続けていました。会社の経営こそ70歳の古希を理由に一線から退いていきましたが、慈善事業や育英事業、民間外交など活動の裾野を広げていきます。こうした活動が評価されての子爵陞爵であったとみられます。

 そして、彼の活動には当館でお馴染みの偉人たちも深く携わっていきます。爵位つながりでいうと、「日本近代化学の父」桜井錠二は死後に男爵を追贈されています。そして栄一と錠二がともに設立に尽力したのが、理化学研究所でした。この理化学研究所の設立を提言した人物は、高峰譲吉。次回はこの理化学研究所にまつわる3者の関係についてみていきましょう。
 ドラマ放映中ちょくちょく上げていきたいと思います。
→上げられませんでした
 が、ちょうど日米関係や民間外交の話題がでましたので、
 次回そっちをテーマに上げたいと思います(2021/12/13追記)

参考文献 
小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』(中央公論新社、2006年) 
千田稔『華族総覧』(講談社、2009年) 
渋沢栄一詳細年譜/公益財団法人渋沢栄一記念財団ホームページ 
https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/kobunchrono.html(参照2021/06/15)
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』57巻
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK570111k_text(参照2021/06/15)

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