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③夢のドイツ 地獄のベルリン(1/3)

金沢ふるさと偉人館
河野「奥さん、いいんですか、こんな豆タンクで、口悪いでしょう」
菊枝「口が悪いということは、心は口ほど悪くないということですから」
田畑「…菊枝、やめろ、照れるぞ」
――第32回「独裁者」より

ロサンゼルスオリンピックから帰国後、社長令嬢の酒井菊枝と結婚。30で死ぬ死ぬ言われていた男が35歳でめでたく所帯を持つことに。
一方我らが大島というと――

「誇れ! 我等の大島! 家中大よろこび『死を覚悟して飛んだろ』と大島君の両親と夫人の嬉し涙」
――『北國新聞』昭和7年8月6日 朝刊

ん?

上記はロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した時の記事です。
この時の大島は現役の関大生でした。
…夫人?

なんと大島、在学中に結婚していたのです。
部の統制のため他言はしていなかったようですが、文武両道だけではないというか青春を全力で謳歌していますね。

それはさておき、1936年のベルリンオリンピックに向けて、選手 大島は更に躍進していきます。

入社!そして新記録へ―1934年(第32回33回)

嘉納「…譲ってもらう、というのは、どうだろう」
  「ムッソリーニに、オリンピックを」
――第33回「仁義なき戦い」冒頭より

幻の東京オリンピック…1940年のオリンピック開催候補地として名乗りを上げた東京。
招致成功に向けてムッソリーニと交渉するやらてんやわんやな体協の面々。
ここら辺はムッソリーニやらヒトラーやら「大河で出てくんの!??」という昭和の超有名人が続々登場して毎度衝撃を受けました。

が、大島はまだ一選手でしたのでそっちの話は全然関わって来ないのでそっちは一旦置いておいて。
この頃の大島が何をしていたかを見ていきましょう。

1934年6月、関西大学を卒業した大島は大阪毎日新聞社に入社します。卒業前に大阪朝日新聞社からも勧誘を受けたそうですが、「朝日には織田さんが既にいるじゃないですか…」と相変わらずの反骨精神で入社を断っています。

ここから大島鎌吉のもうひとつの顔“反骨のジャーナリスト”人生がはじまるのですが、選手としても快進撃を続けます。

5月に開催された極東選手権競技大会では三段跳びで金メダルを獲得。
同年9月に甲子園南運動場で開催された日米対抗陸上競技選手権大会では、15m82という三段跳びの世界新記録を樹立します。

このとき大島鎌吉26歳。陸上競技選手として最盛期を迎えた瞬間でした。

※大島の世界新記録樹立を讃えて贈呈されたブロンズ像と、おそらく記念に作成された「投」「走」「跳」とそれぞれ書かれた(直筆?)三枚の記念皿は、今回の企画展で展示中です。

実は、この年の極東選手権競技大会を巡って、大島にとって忘れられない出来事がありました。
国際問題に発展し、世論を二分した極東選手権競技大会参加問題です。
そこには、当時の政治の動静、そして日体協の首脳――すなわち嘉納治五郎たちが深く関わってきます。

満州国をめぐるアジアスポーツ界の波乱

金商時代の大島が三段跳びで銀メダルを獲得したこともある極東選手権競技大会。
この大会は中華民国、フィリピン、日本の三ヶ国(極東体育協会)が1913年にアジアのスポーツ振興や国際親善などを目的としてはじめたもので、現在のアジア大会の前身といえます。
その大会の参加国を巡って、日本と中国が対立します。

その国とは、満州国

1931年の満州事変を発端として建国した満州国でしたが、その独立性は国際社会で疑問視され、これを不服とした日本は1933年に国際連盟を脱退。日本が国際社会で孤立していくきっかけともなります。
この翌年に予定されていた選手権大会に、満州国体育協会が参加を表明し、日体協もこれを支持します。しかし中国側は当前ながら猛反発。満州国選手団の参加を認めませんでした。

これに怒ったのは満州国参加を推進していた陸軍。
「満州国が参加できないならば日本も参加するな!」と日体協に同大会への不参加するよう圧力をかけます。
これ騒動は新聞も大きく取り上げ世論は真っ二つに。

朝日新聞は「現地の会議で決着すべき」と参加賛成派、毎日新聞(大島入社前)は不参加を支持。
世論の対立は段々とヒートアップし、満州の青年将校が嫌がらせの怪文書を選手団に流したり、右翼系暴力団が選手団の合宿所に殴り込みをかけるなど、参加反対派の一部が暴徒と化します。

しかし、日体協側はこうした暴力行為に臆するどころか警護を強化して参加を強行。
こうして大会はマニラで開催されました。
大島は参加を断行したときの心境を次のように振り返ります。

単に参加したいためではなかった。問題の解決は現地の会議を通じてやる以外にはないと判断したからである。
――大島鎌吉「もう一度省みよう!」p86

ロサンゼルスオリンピックで「勝つことではなく~」というモットーと出会った大島でしたが、スポーツの勝敗以外のことを本格的に考え出したのはこの事件がきっかけだったと後年述懐しています。

大島はキャプテンとして、満州国加盟の有無をこの会議で決めるべき(加盟に賛成)と強く進言。これにより、大会最終日の会議で満州体育協会の加盟を譲らない日本に対し、中国側は極東体育協会脱退を表明。極東選手権競技大会はこの年をもって終了となります。

深まる日中対立と過激化する民衆……戦争の影は、すぐそこまで迫ってきていたのでした。

満州国の加盟には賛成だった大島でしたが、大会報告では、中国の陸上競技選手がメキメキ育ってきていることを喜ぶとともに、しかし暫くは戦えないことを寂しそうに振り返っています。

世論を二分した事件はこうして幕引きとなりましたが、大島は後年事あるごとに参加の際に権力や暴力に屈せず参加に踏み切った体協の行動を賞賛しています。

この時の体協がどのような議論を重ねて決断を下したのか、残念ながら詳細は分かりません。しかし、各種妨害に遭いつつも毅然とした態度で参加を表明した体協首脳部の行動は、大島の心に深く突き刺さったのです。
「争っている時だからこそスポーツによる交流が必要」
「スポーツに政治介入をさせない」
という姿勢は大島の生涯を通したポリシーとなります。

もし「いだてん」本編でこの事件が描かれていたら、どのようなストーリーになっていたでしょうね。
この事件、…何かを思い出しますね。そう、確かジャカル…

1936年ベルリンオリンピック(第35回、36回)

極東選手権競技大会と世界新記録樹立から2年度、大島は前回の雪辱を果たすべく、ベルリンオリンピックへの出場を決めます。
このとき、既に織田幹雄、南部忠平の早稲田コンビはおらず、田島直人ら新進気鋭の若手メンバーとともに選ばれ、陸上競技選手団主将に就任します。

目指すはもちろん金メダル

「ロスで獲得した金メダル? 価値はないね。金メダル以外は意味がないんだよ」
――岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』p77

この言葉からは、選手 大島の勝利に対する貪欲な姿勢がありありと伝わってきます。

ロサンゼルスオリンピック以降、現役選手として練習を続ける傍ら、各種大会でコーチやマネージャーを兼任することが増え、さらに社会人になってからは新聞記者も兼任することになり、多忙な日々が続きました。

しかし前大会とは異なり、今回は大きな怪我もなし。世界新記録保持者という自負。何より三段跳び選手中唯一オリンピック出場経験もあるので、比較的気持ちに余裕があったのではないでしょうか。

本番当日。予選決勝併せて6回のチャレンジ中、大島は1回目をアップがてら八割の力で跳びます。
「6回中1回新記録を出せば優勝だと思えば、気楽なもの」という前回同様どこか冷静な心持ちで臨んでいたのかもしれません。

しかし、新記録を出したのは大島ではありませんでした。

なんと、田島直人が1回目に16m00という世界新記録を叩き出したのです。

大島の自己最高記録は世界新記録の15m82。それを18cmも上回られ、大島の心身は一気にバランスを崩します。
2跳目はファウル。その後も試行錯誤をしながらファウル、ファウル、ファウル…

自身の新記録を塗り替えられ、それを更に塗り替えねば金メダルに届かない――
その焦りが、大島のフォームを大きく崩し、結局1回目を除きすべてファウルに終わります。
決勝を終え、三段跳びは
金メダル 田島直人(京都大学)
銀メダル 原田正夫(京都大学)
の京大ワンツーフィニッシュ。
大島は1回目の記録15m07が記録となり、6位入賞となりました。

優勝に向けた4年間の努力も、自身が樹立した世界新記録も、自身が指導もしていた後輩によって過去のものとなっていく―

ひとつの世代交代を感じたのか、大島はこのベルリンオリンピックを機に現役を引退します。
15歳で金沢商業学校競技部に入部以来、足かけ14年の選手生涯でした。

”跳ぶ”哲学者 大島の物語は此処までですが、ベルリンオリンピックでは新たな出会いが待ち受けていました。
また、大島にとって縁の深いドイツに初訪問となった大会でもあります。
その話はまた次回に。

次回(2/3) スポーツをする者はいつも平等であり、底辺もヒエラルキーもない

【余談】
最初に紹介した北國新聞記事の中に、大島夫人(二三子)のインタビュー記事が載せられており、そこでは妻から見た大島が語られています。

(筆者注、夫が銅メダルを獲得したことについて感想を聞かれて)
そうですネ、感激する性なので大観衆からの拍手などで昂奮しなければよいがと案じながらも落ち着いた人だから大丈夫だという自信もありました。

心配しつつも信頼している夫婦愛を感じてほっこりします😊

参考資料・文献
大島鎌吉「跳躍日本の寂寥」(日本陸上競技連盟編集委員会編『マニラ遠征記』1934年)
    「もう一度省みよう!」(東竜太郎『オリンピック』わせだ書房、1962年)
    「オリンピックの思い出」『東京オリンピック』17、1963年
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)

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