秋聲と第四高等中学校②
(※この記事は、旧雑報で2021年 7月17日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。本企画展は8月31日(火)まで休館のため中断中-会期9/12迄)
前回は秋聲在学中の第四高等中学校の先輩陣や先生方、同級生にスポットを当てましたが、今回は秋聲が小説家を目指すきっかけになった出来事や悠々との関係を中心に掘り下げていきたいと思います。
秋聲が小説家を志す切っ掛けとなったエピソードとしては、まず佐垣帰一との交流が挙げられます。彼は秋聲の先輩にあたり、「井上や清水などのグループの一人」(=井上友一、清水澄)とあるので、4,5年上の学年(年齢は別)でしょうか。
秋聲曰く「人格才能のすぐれすぎた小倉とも親しく往来して、小倉の妹に恋していることも、そこはかとなく等の耳へも伝わったことだったが、それも失恋に終わったとかで、帝大の史科を出ると、間もなく死んでしまったが、」(小倉=小倉正恒、等=作中の秋聲)
…失恋のことは書いてやるなよ!と突っ込みたくなりますが、どうやら夭折されたようです。
そんな彼が秋聲に発した言葉「君なんか小説家になると可いがね。」は、小説家・徳田秋聲に最初の火を灯します。この時は話半分にしか聞いていなかったようですが、しっかりと覚えている辺り、相当印象深かったのでしょう。
佐垣の他にも、国府犀東など様々な文学仲間たちと交友をもった秋聲でしたが、一番仲良くなったのが、桐生悠々でした。
秋聲からみた悠々は年齢こそ2つ下ですが、随分大人びた印象だったようです。例えば、当時の秋聲は「板垣が岐阜で刺されて、板垣死すとも自由は死せずと叫んだという噂」に異常な刺激を受けたり、「志士気取りで常に肩肱を張って校舎の廊下を歩いている一群の『精献遺言』党」(※)に「いくらか感化れていた」と語るように、多少血気盛ん?な、ある種若者らしい熱量をもっていました。
これに対し、悠々は「精献遺言」党を「あんなのは皆青春期の色情の擬装に過ぎんよ。」とバッサリ。これには秋聲も「必ずしもそうとも思わなかったが、いくらかは徹えた。」と語っています。悠々の、周囲が熱狂してるときに一歩引いた視点から「言わねばならぬこと」を申す性格の片鱗を感じます(これについては番外編で…)。
とにもかくにも、こうして仲良くなった桐生と秋聲ですが、“相棒”を得たことでいよいよ文学への熱―すなわち小説家への夢は本物になっていきます。
とはいえ、家族の理解は中々得られなかったようですが、苦手な代数や化学が足を引っ張り落第、更にそんなタイミングで父が病死…、二人の兄も家からいなくなり、いよいよ秋聲の情熱を止めるものもいなくなりました。
そして遂に、周囲の反対を押し切って二人は退学届けを学校に提出。売れっ子小説家の尾崎紅葉へ弟子入りするために上京します。そんな青春真っただ中なふたりを東京で待ち受けていたのは…
泉鏡花でした。
※『精献遺言』は日本の尊王思想に多大な影響を与えた、江戸時代の儒学者浅見絅斎(1652-1712)の著書。