②中西悟堂というひと
前回の更新日:4月24日
…えっ
あっという間に時間は過ぎていくものだなあと実感したところで、今回は企画展の主役である中西悟堂とはどういった人物なのか、少し掘り下げてみたいと思います。
「日本野鳥の会の創設者」「動物愛護や自然保護に尽力した偉人」として知られていますが、実は短歌や詩もたくさん残しており、歌人・詩人としても著名という多彩な才能の持ち主でした。
また、中々に強烈…ユニークなエピソードが満載且つ波瀾万丈な人生を歩んできた人物です。
ということで、悟堂の逸話をいくつかご紹介していきましょう。
生まれ変わった少年時代
明治28年(1895)11月16日、金沢市に生まれた悟堂は、父が病死、母とは生き別れと、幼くして両親と離別し、伯父の養子となります。
この頃は悟堂ではなく「富嗣」といいました。
主に海外出張の多かった伯父に替わり、東京の祖父母に大事に育てられた富嗣はすくすくと育…
ったわけではありませんでした。
5歳の頃まで腰が立たず、歩くことができませんでした。
それもハイハイではなく、カニのような横ばいしかできなかったとか。
また、年中ひきつけを起こしたり、医者のお世話にならない月はなかったらしく、虚弱児だったと後年振り返っています。
一方で四書五経の素読などを幼くして習っていたためか、文筆の才は既に光るものがあったといいます。その才を見出した小学校の校長の意向で、4歳から毎日祖父に背負われながら学校に通っていたそうです。
しかし、天賦の才があったとしても「このように病弱だと長く生きられないだろう」と思った伯父は、富嗣が10歳の頃にイチかバチかと山のお寺へ修行にいかせることにしました。
その修行というのが中々の荒行だったらしく、
①林の中での百八日間の坐行
②二十一日間の滝行
③二十一日間の断食
という子どもには相当ハードな内容でした。
結跏趺坐中は蚊が肌に止まったとしても「殺生禁断」なので刺されっぱなし。叩こうとしようものなら逆に和尚さんにぶっ叩かれるといった有様で、痒いわ足は痛いわ退屈だわお腹は減るわと散々だった様子。
足を崩して良いのが便所の時だけで、その際に唯一の話し相手だったのが小鳥でした。
この修行、最初は四十代くらいの大人も一緒に受けていたみたいですが、途中で堪えられなくなって逃げてしまったという…(気持ちは分かります)。
こうして150日間に及ぶ大人も逃げ出す過酷な修行を耐え忍んだ結果、
富嗣はまるで生まれ変わったかのような大変頑丈な身体を手に入れました。
これには富嗣も大喜びで、14歳の時に再度滝行をしに近くのお寺へ修行しにでかけます(それも凄い)。
更にここで新たなる力を手にします。
ゴォーッと激しい水音を立てる滝に打たれている間は、ほとんど他の音が聞こえません。
…のはずなのに、ポチャンっと池に落ちる石の音が聞こえるようになり、さらに遠くの庫裡にいる和尚さんの話し声が聞こえたり、さらに誰が和尚さんを訪ねてきているかが透視のように見えてくる―
いつに間にやらこんな力まで身に着けていたようで、その話を和尚さんにすると
「なにこいつ…怖っ」
と、気味悪がられたそうです。
過酷な150日間は、仏道修行、小鳥たちとの触れ合い、丈夫な体―
と、その後の悟堂を構成する重要な要素を多数内在しており、この荒行の経験が人生の分岐点となったといえます。
裸の坊様
悟堂に出会った人たちの間であるあるの鉄板ネタが、
「家に会いに行ったら全裸で出てきた」
というエピソード。
基本的に悟堂は家では全裸で過ごしていたらしく、実際複数の人たちの伝聞が残っています。
金田一春彦(1913-2004)は、悟堂とはじめて会った時のことをこのように振り返っています。
後日悟堂宅へ招待されていくと、悟堂は浴衣を着ていました。
曰く「普段は裸だが、お客に会う時だけは女房に叱られてこれを着るんだ」(同上p101)
家の中では放し飼いの鳥たちが悟堂に懐いており、その生態について色々と教えてもらったといいます。
その後父の金田一京助(1882-1971)とともに悟堂が主催した第一回探鳥会にも参加しています。
戦後、執筆に自然保護活動にと大忙しの悟堂。あまりの多忙さに頑強な身体も悲鳴を上げて次から次へと病気を併発していく年がありました。
最終的に脳血栓になって体はボロボロ…一応お医者さんから薬をもらって家に帰り、安静に―
ふと仏教の四大(地・水・火・風)の思想を思い出した悟堂。
薬を飲むのはやめ、素っ裸になって川で泳ぐことをはじめます。
※脳血栓患者です
ついでに7mくらいある崖から毎日飛び込みも行い、さらに探鳥会でも全裸で山を散策。
※11月でも敢行
その結果、体調がみるみる良くなり、脳血栓もいつの間にか治っていたとのこと。
これ以降永らく悟堂は全裸で生活を続けていきます。
毎日10キロ程の散歩を、自宅のあった世田谷方面で行う際も裸。世田谷通りでも裸なのでそのうち新聞社が取材にきたこともあったとか。
悟堂の七回忌を偲んで刊行された『悟堂追憶』には、生来親交のあった関係者からの追悼文が載せられています。
その中にはこんな発言も。
ということで、今回は「野鳥の父」中西悟堂ではなく、「裸の人」中西悟堂特集のような内容となりましたが、多くの人を惹きつけた悟堂の人柄がこうしたエピソードからも伝わってきます。
※注意:常人が気軽に真似をしてはいけません。最悪死に至ります。
という但し書きが必要な逸話ばかりですが、悟堂に興味を持たれた方は是非参考文献の本をお読みください。偉人館の図書コーナーにもあります。
次回は本題、悟堂と野鳥図鑑について。
引用・参考文献
中西悟堂追想文集刊行会編『悟堂追憶』春秋社、1990年
中西悟堂『愛鳥自伝 上』平凡社、1993年
中西悟堂『野鳥開眼』永田書房、1993年