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福祉の歴史に金沢あり! 企画展紹介―陽風園編②―

今年は講座・講演会の依頼が多く、中々雑報の執筆に時間が割けないというありがたい悲鳴を抱えております
先日は東京で漆芸家・松田権六について語ってまいりました!
紹介しきれなかった逸話もそのうち雑報で紹介するとして、今回は再び企画展「福祉は金沢(ここ)から始まった!―陽風園と善隣館―」の続きをやっていきますよ!

小野太三郎の精神を受け継いだ 今田與三松

「仁愛の精神」のもと、小野休養所(現 陽風園)をつくり金沢の福祉をになった小野太三郎。
彼のもとには、同じ志をもつ人々が集まりました。
今回紹介する今田與三松もその一人です。
 
今田が太三郎のもとを訪ねたのは16歳の頃。
当時理髪業を営んでいた今田は、太三郎に入所者への理髪の無料奉仕を申し出ます。
 
皆さんも聞いたことあると思いますが、実は髪の毛は人体の中でも特に汚れが付きやすく不衛生になりやすい箇所…!そのため、理髪は身だしなみを整えるだけではなく、衛生面でも大きな意義があります。
 
青年が立派な志を持って自ら申し出てくれたのですから太三郎も嬉しいはず―ですが、太三郎はすぐに手を取って喜ぶのではなくスッとあるものを差し出しました。
 
それは小野救養所の食事。
各所から集めてきた残飯を一度干し、それを再び温めたご飯でした。
 
「みなが食べているこのメシを食えるか?」
 
そのご飯を今田が完食するのを見届けた後、太三郎は
 
「そこまでやるならお願いする」
 
といって、理髪奉仕の申し出を受け入れました。
 
後に太三郎からその真意を次のように告げられました。

「これ(食事)が臭く(感じ)てはとても他人のために尽くせない」
 
当時の小野休養所の衛生環境は、決して良好とはいえませんでした。
それでも、なけなしの予算をやりくりしながら、懸命に入所者の命と心を繋いでいく活動を太三郎は続けていました。
 
太三郎は入所者と寝食を共にし、和気藹々と語り合いながら日々の生活を営んでいます。
しかし、厳しい財政状況と衛生環境の中で持続していくことが大変覚悟のいることだと自覚しており、だからこそ16歳の青年の覚悟を試したのでした。
 
そして今田はその試験をクリアし、無事理髪の無料奉仕をはじめます。
毎月一度、自宅の金石から彦三の小野休養所まで通い、入所者の理髪を行いました。
また、陽風園だけではなくその他の福祉施設でも理髪奉仕をはじめました。
さらに子どもたちへの理髪指導を行うなど職業訓練も担い、何人もの理髪業者を育てています。

理髪奉仕を行う今田與三松(右側笑顔の人物)とスタッフ (提供:社会福祉法人陽風園)

太三郎の死去もその精神を受け継ぎ、申し出から60年近く理髪奉仕を続けました。
こうした功績が認められ、昭和27年(1952)に藍綬褒章を受章しています。
翌28年(1953)に亡くなった際は、陽風園を上げて“園葬”が執り行われるなど、入所者から深く愛され、太三郎亡き後の陽風園の精神的支柱だったことが伺えます。

また、今田家では與三松の息子と孫もその遺志を引き継ぎ、合わせて80年にわたって陽風園の理髪奉仕を続けました。
 
こうして小野太三郎も死後も、今田與三松ら次世代の人々に仁愛の精神は受け継がれ、今も福祉拠点として陽風園は地域に根差しています。
 
また今田は生前の小野太三郎を知る上で、とても貴重な情報を遺してくれています。
ラジオ番組に出席した際、太三郎の印象について聞かれ、
・古びたシャツに継ぎ接ぎだらけのズボンをはいていた
・決して他人に仕事を押し付けなかった
・百人一首を歌いながら草むしりをしていた
と語り、その姿を忘れられないと敬愛の意を込めて語っています。
 
現在残されている小野太三郎の写真といえば、和服姿で藍綬褒章を付けた所謂「おめかししたもの」ですが、今田の思い出話からは、皆に慕われた太三郎の飾りっ気のない姿が浮かび上がってきますね。

今田與三松と子ども

こちらは晩年に撮られた與三松と入所者の子どもの写真です。
子どもの屈託のない笑顔から、今田がとても愛されていたことが伝わってくる素敵な一枚です。
 
ということで、今回は理髪奉仕に生きた今田與三松について紹介しました。
次回からは善隣館編!
会期中にすべての雑報を更新できるのか!?こうご期待!!(しないで)
 
参考文献
「もう一人の慈愛の人 今田與三松」『社会福祉法人陽風園 創立140周年記念誌』(陽風園、2014年)
『社会福祉法人陽風園 創立150周年記念誌』(陽風園、2024年)