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桐生悠々と手紙

(※この記事は、旧雑報で2021年 5月31日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。本企画展は8月31日(火)まで休館のため中断中-会期9/12迄)

いよいよ5月も最終日。今日も今日とて資料整理に明け暮れております
(このとき一度目の臨時休館中※2021/8/8追記)。

桐生悠々のものはひと段落ついたので北条時敬関係資料を引き続き整理中。本や掛け軸のほか、手紙や本の注文書・領収書の類がたくさん残されています。特に手紙のやり取りや購入歴は、その人の行動や人となりを知る上で大変重要な情報源となります。

前回明治の古文書は中々読めん~と贅沢抜かしましたが(難読なのは本当)、ともすれば廃棄対象になりやすい書簡関係がたくさん残されているのは、我々後代の人間にとって本当にありがたいことです。 

一方で、悠々には殆ど手紙が残されていません。今回の企画展でも、展示しているのは悠々に宛てた物ではなく遺族に宛てたお悔やみ状(1941年9月付)。僅かに残された手紙も1930年代前半のものが中心です。

政財界から文化人まで広い人脈を有していたはずの悠々ですが、何故手紙が残されていないのでしょうか。合理主義的な思考の持ち主なため、基本読んだら廃棄もしくは再利用していたのでしょうか。 


その答えは、「寿々談話」(悠々の妻寿々が、戦後に悠々を語った回想を録音したもの)に残されていました。

曰く、悠々が当時「国家の邪魔者扱い」であったため、他人に迷惑がかからぬよう処分したとのことでした。
昭和8年(1933)に信濃毎日新聞に掲載した「関東防空大演習を嗤う」が要因で新聞社を追われ、名古屋で自筆出版雑誌『他山の石』を刊行ながら「言わねばならぬこと」を展開した悠々。死の直前まで当時の軍部批判をやめなかった悠々は軍及び特高から目を付けられる存在でした。そのため桐生家への来客といえば特高課の人たちばかりという有様だったようです(怖い)。

周囲からも「非国民」「国賊」呼ばわりを受けるなど、当時如何に悠々が孤立無援に近い状態であったかがうかがえます。こうした自身の状況を鑑みて、応援者・友人を巻き込まないための最大限の配慮が手紙の処分でした。

一方で、彼の死に際してたくさんのお悔やみ状が届いているところから、隠れ?支援者が多かったことが読み取れます。
(ちなみに寿々曰く、柳田國男の手紙もあったようです。どのようなやり取りがあったのか、興味深いですね!)

差出人や内容だけでなく、残存状況もまた当時の情報を読み取く鍵になる。手紙という資料は奥が深いです。
そういえば、今は基本やりとりといえばネット…となると、100年後には如何程の情報が残されているのでしょうか。全部消えているかもしれませんが、同時代資料として保存され晒(てんじ)されている可能性も…。