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③夢のドイツ 地獄のベルリン(3/3)

治五郎「これから一番面白いことを始めるんだ、東京で。本当にできるのかと、眉をひそめてぬかしおった西洋人を、あっと言わせるような、誰もが驚く、誰もが面白い…そんなオリンピックを、見事にやってのける…うん、これぞ一番! わはははは」
――第37回「最後の晩餐」より

鰻香オリンピック(第36-38回)

1936年、ベルリンから帰国した大島は現役を引退。後進の育成に注力していきます。
というのも、4年後の1940年大会の開催地は東京――日本の陸上界の今後を担っていく大島にとっても選手育成は最重要課題でした。

学生時代から徹底した理論派として「跳ぶ哲学者」の異名で知られた大島は、来る4年後の大舞台に向け科学トレーニングを推奨していきます。
前回も触れた通り、大島はベルリンオリンピック事務総長のカール・ディームと面会し、彼のスポーツ科学理論を直に伝授されました。

大島は選手時代に培った経験とカール・ディームの指導を生かし、「スポーツ科学研究グループ」を創設。スポーツを医学、力学、心理学の面から研究していきます。

例えば、4,50年ほど前まで教育の分野で盛んに言われていた「運動中に水を飲んではいけない」という説は、「脱水症状の危険がある」と否定し、トレーニング中の給水を推進しました。
戦前既に実証されていたことが、つい最近まで教育の現場では採用されていなかったという現象は、習慣化された伝統を覆すことの困難さを示していますね。

また、科学トレーニングによる身体強化の他にも、競技場のコンディションにも着目していました。
大島はベルリンオリンピックでドイツ選手たちが好成績を残せた要因として、科学トレーニングの成果とともに、人工土をつかった“競技環境の整備”もあったと考察しています。
そして、ベルリンの競技場で使われていた人工土を持ち帰り、陸上競技場建設のために人工土の研究を依頼するなど、東京オリンピックに向けた競技場の環境整備にも力を注ぎました。

この時大島は現役を引退したばかりの28歳、まだまだ心身ともに力がみなぎっていた時期でした。

しかし、ベルリンオリンピックの翌年、日本は長い長い泥沼の戦争に突入します。
1937年の盧溝橋事件を契機に勃発した日中戦争により、日本は莫大な戦費と人員を大陸につぎ込んでいきます。

河野「万歳の声を背中に聞きながら中国へ多くの若者が出征して行く。一方において派手なユニフォームを着て、飛んで、廻っている青年がいる。何が精神総動員か! オリンピックなど一刻も早く返上すべきです!」
――第37回「最後の晩餐」より

それでも、1940年東京オリンピック開催を夢見てした嘉納治五郎でしたが、1938年(昭和13)IOC総会からの帰国途中に逝去。
最後の砦を失った東京オリンピックは返上が決定され、ヘルシンキが代替の開催地となります。

大島は幻に消えたこの東京オリンピックを後に“鰻香オリンピック”(鰻香=匂いだけで実態がない)と呼んでいます。
東京大会は幻となりましたが、返上したことによってオリンピック自体が中止とならずに済んだことに大島はひとつの希望を見出していました。

国際学生競技大会(第38回)

田畑「東京オリンピックは中止だあっ! おしまいっ! 返上! だからもう走らんでよか」
勝「…『返上』なら、オリンピックは、やりますよね」
田畑「ん? ……ああ、やるんじゃないか? ヘルシンキで」
勝「あーたまがったぁ! 中止って仰るから。そぎゃんでしたら、俺ぁヘルシンキに出るばい、そんだけの話たい」
四三「ばってん小松くん、戦争のおさまらんと日本人は出られんぞ」
――第38回「長いお別れ」より

日中戦争により東京大会を返上したことで、日本スポーツ界は国際大会において孤立状態となっていました。
また国内情勢(戦時中)もあり、1939年8月に予定されている第八回国際学生競技大会兼ドイツ招待大会(ウィーン)に日本選手団を送るかで体協内でも意見が割れていました。

大島は、「国際交流の趣旨を貫いても、また次代の体育文化発展の磁石を置く意味においても、派遣には両手を挙げて賛成しなければならない。」(『陸上日本』3月号、1939年)と選手の派遣を強く推進します。
そのキーアイテムとなったのが、日独文化協定でした。

当時国際社会で孤立を始めていた日本はドイツと接近。
1936年11月に日独防共協定が締結され、同協定2周年を記念して1938年11月に日独文化協定が公布されます。
その二条には「締約国ハ前条ノ目的ヲ達成スル為学術、美術、音楽、文学、映画、無線放送、青少年運動、運動競技等ノ方面ニ於テ両国ノ文化関係ヲ組織的ニ増進スベシ」と、両国の文化交流の増進が明記されています。
この文化協定を盾に、大島は選手団派遣の意義を声高に主張しました。

さらにドイツ側から日本の選手団参加を熱望する電報が届いたこともあり、日本選手団の派遣が正式に決定しました。この時、大島は陸連から選手団長兼監督に指名されます。

しかし、参加を決定したものの戦時中の資金集めは相当厳しい状況でした。
そこで大島は一計を案じます。
当時の駐独大使 大島浩(陸軍出身)に名誉団長就任を依頼し、陸軍の資金援助を期待したのです。

…え?戦争中にスポーツの資金援助を…?ましてや陸軍に……?
と、ここで日独文化協定が光ります。

陸軍としても同盟国であるドイツからの招待となれば無碍にはできません。また大島浩はヒトラー信望者でもあったので、大島(鎌)の依頼を快諾。晴れて渡欧資金を獲得することができたのでした。
こうした手腕はまーちゃんに通じるものがありますね。

こうして大島は選手団長兼監督として、学生たちを率いてウィーンに乗り込みます。科学トレーニングを導入し、旅路でのアクシデントなどにも臨機応変に対応し、英語やドイツ語を駆使して外国人と対等に渡り合う大島を、学生たちは尊敬の眼差しでみていたと言います。

大会参加を主導した大島の狙いは、国際スポーツ界から日本を完全に孤立させないことでヘルシンキオリンピック参加への可能性を模索することにありましたが…
1939年8月―――すべてご破算となります。
それは大会二日目のことでした。

ドイツがポーランドに侵攻し、戦争状態に陥ったのです。
第二次世界大戦の勃発でした。

欧州脱出作戦

孝蔵「1939年9月1日、ヒトラー率いるナチスドイツ軍はポーランドに侵攻。そのルートは皮肉にも、ベルリンオリンピックの聖火リレーのコースを逆に辿るものでした。ヒトラーはとことんまで、オリンピックを戦争に利用したのです。これに対しイギリス、フランスが宣戦布告し《第二次世界大戦》が勃発、もはや世界中が戦争当事者でした」
――第38回「長いお別れ」より

ドイツからの招待で参加できた大会は、ドイツの都合により中止に。
「欧州情勢は複雑怪奇」と言ったところでしょうか。
これにより翌年のヘルシンキオリンピック開催も絶望的状況となりました。

必死に掴んだ最後の希望が戦争によってすべて灰燼とかしまった大島の、大会参加に意欲を見せていた選手達の無念さは計り知れませんでした。
しかし、うじうじともしていられません。
日本大使館から即時帰国命令が大島達に通達され、日本選手団は戦禍の欧州から帰国することに。選手団長として選手達の命を預かっている大島は、選手の帰国を使命として行動を開始します。

ベルリンの日本大使館から指定された日本郵船の靖国丸に乗って帰国することに。
大島達はウィーンからハンブルグ港(ドイツ)へ15時間かけて移動しますが……
なんと靖国丸は3時間前に出航していたのです。
大島及びマネージャー、選手の計12名は戦時下の欧州に置き去りにされた形となりました。

まさかの事態にただただ途方に暮れる選手たち…そこで我らが大島は次の一手を打ちます。
長年の欧州遠征で培われた土地勘と人脈を活かし、方々に連絡を取ったうえで次のような指示を出しました。

「俺の勘だが、靖国丸はノルウェー充ベルゲン港に向かっているはずだ。よしベルゲンへ行こう」
――中島直矢「ドイツ遠征」『スポーツの人 大島鎌吉』p15

ハンブルグはデンマークに近いドイツ北西の港ですが、そこから北東に移動し、ドイツ北端ザスニッツ港からスウェーデン行の連絡船に乗り、ノルウェーの首都オスロに到着。一行は日本大使館で久方ぶりの温かい食事にありつけました。
さらにオスロから列車でベルゲン港に移動。港へ向かうと、そこには靖国丸が停泊していたのでした。
ウィーンを出発してから4日目にして、遂に欧州からの脱出に成功します。

ハンブルグ港で靖国丸に乗り遅れてからの大島は、経験と収集情報から寄港地をベルゲンだと推定し、ベルゲンまでの移動手段を即座に判断し、各国の日本大使館及び諸機関に連絡をとって移動がスムーズにできるよう取りはからい、欧州を南北に縦断しての大移動を完遂しました。

この緊急事態にみせた大島の機転と行動力の速さは、まさに「いだてん」

この後靖国丸は大西洋を横断し、ニューヨークを経由して日本に向かいます。

が、大島が選手団と旅路を共にしたのはニューヨークまででした。

選手団長兼監督として、選手たちを無事帰国の途につけるという使命を達成すると、今度はジャーナリスト魂が大島の中で燻り始めました。
そして従軍記者として、欧州に単身戻ることを決意します。
そしてそれがどれだけ危険なことかは、大島自身が肌で感じていました。
というのも、ニューヨークで入ってくる情報は、ドイツに対する反感感情と米ソの不穏な動向ばかりでした。

ドイツの敗戦はそのとき既に予言されていた。ことの当否は別として、私のドイツ入りの準備は、だから最初から逃げ支度で、スーツケース三個に必要な見まわり品を詰め込むという、極めて簡単なものであった。人々は限りなくこの従軍記者に同情した。ドイツ総領事館の査証係まで『身体に気を付けて』と固く手を握ったほどである。
――大島鎌吉「死線のドイツ」p

この大島の決意を知った選手たちは、皆泣きながら別れを告げました。
こうして大島は欧州から避難してくる者たちの「呪詛の声」を聴きながら、単身欧州へ舞い戻り、毎日新聞社ベルリン特派員としてドイツ戦線を取材していきます。

死線のドイツ(第38、39回)

1939年9月、従軍記者としてドイツ入りした大島は、1945年のベルリン陥落に至るまでドイツ戦線を取材しつづけます。
ワルシャワ、パリ、カサブランカ、レニングラード、ウクライナ、フィンランドなど縦横無尽に戦線取材を敢行しました。

企画展でも展示している『東京日日新聞』昭和17(1942)年10月19日付の記事には『吹雪の独ソ最北戦線を行く』『眼前三百火を噴くトーチカ 危うし一弾・記者を狙い射ち 凍る塹壕に戦う独山岳兵』という見出しが。
「危うし一弾・記者を狙い射ち」の文言からも分かる通り、常に死と隣り合わせの状況下での取材でした。

また、『戦後ルポルタージュ 独伊編』(鱒書房、1947年)に収録された大島の従軍回想録「死線のドイツ」では、焼けただれた死体、一面に漂う腐敗臭、戦線で散っていくオリンピアたち…最前線で見届けた悲惨な光景が生々しく、克明に描写されています。

この6年にわたる従軍記者生活は、大島の平和思想に深い影響を与えることとなりました。
戦線取材を続ける一方で、次のような破天荒なエピソードも。

【鎌ちゃんのエ~~~~!!!ピソード】
『他人を装いヒトラーを取材』

 ドイツにいた時、アドルフ・ヒトラーの取材がしたいと思った鎌ちゃん。駐独大使の大島浩と同姓であることに目をつけます。
 そこで、首相官邸に
「メンダンシタシ ジャパン オーシマ」
と電報を送信。
 向こうは大島浩だと思ってOK を出すとやってきたのは大島鎌吉。
 とはいえ、特に咎められることもなくヒトラーと面談を行うことができたようです。ただし、軍部の厳しい検閲によってこの時の記事はお蔵入りに。

ジャーナリストとしても凄まじいアグレッシブさとバイタリティを持っていることがよく分かります。

大島自身も「最初から逃げ支度」と言っていたように、次第にドイツ戦線は追い詰められ、遂にソ連軍によるベルリン攻撃が開始されます。
これに先立ち、ゲッペルス(ドイツ宣伝大臣)から大使館や従軍記者たちへ「いま脱出しないと命の保証はできない」という勧告がなされたそうですが、大島は引き続きドイツに残留します。

大島は身体に日の丸旗を巻き付け、二挺拳銃を隠し持ちながら、ベルリン最後の日を取材していました。
そして、ベルリン陥落が明らかになると、ベルリンの国際電報へ向かい、ベルリン陥落の記事の日本への送稿を依頼すると、当局の職員も快諾してくれたといいます。

「あの戦火の中に最後まで残って職場を死守したドイツ人魂には頭が下がった。彼の必死の好意で、この原稿が東京に着くように祈らずにはおれなかった」
――中島直矢「ベルリン特派員」『スポーツの人 大島鎌吉』p23

ベルリンが陥落すると、市中は阿鼻叫喚の地獄へと変わります。
大島がそこで見た光景は、筆舌に尽くしがたいものでした。

狂乱怒涛の街と化したときの全ベルリンには、無警察のままむき出しになった人間の野生がほしいまま暴威をふるったのだ。血に飢えた獣性は猛火と硝煙の渦の中で、至るところ武器のない市民に向かって殺戮、強盗、強姦、ありとあらゆる非人道を思いのままに重ねていった。魔笛に踊る乱舞は死体を積み上げ、その上で血ぬられた土足を踏み鳴らしていたのである。
……(中略)……
 やがて廃墟の中で石を抱いて泣き叫ぶもの、あるいはカラカラと声を立てて気味悪く笑うもの、生き残った人々の中にもすでに魂を失った廃人のさまよう姿が至るところに見受けられた……
――「ベルリン最後の日」p23

「いだてん」でも、満州において同じような光景が繰り広げられていたことが、志ん生に語られていましたね。

志ん生「それからはひでえもんだ。血も涙もねえたぁあのことだ。女ぁみんな連れてかれた。逆らったら自動小銃でパンパンと来る」
志ん生「戦争の何がいやって、あの光景だけは……たまらなかったね。沖縄で米兵が、もっと言やあ日本人が中国で散々ぱらやってきたことだが……」
――第39回「懐かしの満州」より


ベルリン陥落後、大島はソ連兵に拘束され、連合軍の収容所に連行されます。しかし、日ソ中立条約がまだ有効であったため、運よく解放されました。その後シベリア鉄道にのって満州経由で朝鮮の京城(現 ソウル)に到着。そこで孫基禎らと再会し、歓待を受けます。8月1日、京城発の飛行機で6年ぶりに帰国することができました。
この時、帰国した父を空港で出迎えた長男の大島章和氏(故人)は、6年ぶりにみた父の放つあまりの迫力に、思わず敬礼したと語っています。

東京についた大島は、打電をお願いした“ベルリン陥落”記事が採用されたかを確認するため、毎日新聞本社に向かいます。しかし、記事は日本に届いていなかったことが分かりました。

無念であったろう。大島さんの心中は、同業の記者気質として、私にも痛切に伝わってくる。一方、「戦火の中で、東京への打電をこころよく引き受けてくれた国際電報局員は元気でいるだろうか、きっと東京へ打電しようとしているところへ、連合軍兵士が踏み込んできたにちがいない」と、紙面をくりながら、大島さんはその電報局員の無事を祈らずにはおれなかったという。
――中島直矢「ベルリン特派員」『スポーツの人 大島鎌吉』p24

1945年(昭和20)8月15日正午。
玉音放送がラジオで流され、日本の終戦が国民に周知されました。
新聞社で玉音放送を聴いていた大島は、ひとつの決心をします。

「この死に損いは、やりたいことは、何でもやってやろう」


次回 東京オリンピック招致

参考資料・文献
大島鎌吉「国際学生大会に選手を送れ!」(『陸上日本』3月号、1939年)
    「死線のドイツ」『戦後ルポルタージュ 独伊編』(鱒書房、1947年)
    「ベルリン最後の日」(『婦人公論』11月号、1952年)
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)

さて、ようやくSTEPまですすみ、次回からいよいよ東京オリンピック編です
が、

大島鎌吉ポスター

…………………


会期明日で終わりじゃんね~~~~~!!!!


進捗的に予想はしていましたが、このていたらく
企画展の宣伝ではなく「金沢の偉人 大島鎌吉」を知ってもらうために(&趣味)はじめた記事なので、会期終了しても特に問題はないっちゃないのですが…(言い訳)

とはいえ、大島鎌吉関係資料をこれほど一度に閲覧できる機会は、果たして次いつになるか分かりません。
まだ行けてないという方は、是非金沢ふるさと偉人館まで足をお運びくださいませ!
皆さまのご来館をお待ちしております。

ということで、実際の大河ドラマよろしく年末までまったりと更新していきたいと思います。
(「青天を衝け」✕金沢の偉人ネタも色々あるというのに時間が全然足りん…)

みんなにも読んでほしいですか?

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