遺品里帰り展―八田與一が遺したもの(下)
前回は八田與一の業績について紹介しましたが、今回は筆者が昨年現地に赴き、実際に聞いた「與一が遺したもの」について紹介していこうと思います。
昨年台湾で催された八田與一墓前祭に参加するため、筆者は八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会さんなど墓前祭参加者の人々とともに台湾に赴きました。
(去年雑報に体験記を上げるはずが多忙すぎて断念…)
墓前祭当日までの間、台湾の博物館や八田與一にかかわる施設・史蹟などを見学して回ったのですが、そこで台湾の人びとから、嘉南大圳の現状や與一の知られざる功績についてお話を伺いました。
與一が農業用水路として設計された嘉南大圳は、現在も台湾の農業を支えています―どころか、台湾の重要な産業を支える「命の水」として今もフル活用されています。
現在、台湾では半導体製造が有名ですが、その製造に用いる大量の水は、嘉南大圳によって担われている、ということを現地の方から教えて頂きました。
農業と工業、時代が変わっても重要な役割を嘉南大圳は担っています。
このように、現在も重要インフラである嘉南大圳は、昭和5年(1930)の竣工から90年以上が経っています。
與一は、地震など自然災害も多い台湾で50年以上堪えるダムを目指して設計したのですが、気づけばその倍近く…いやはやこれは凄いことです。
とはいえ、老朽化により水の供給がストップしてはまずい…ということで、烏山頭ダムの大動脈である烏山嶺隧道(1929竣工)を新たに掘削することとなりました。
烏山嶺隧道は、烏山頭ダムの主水源である官田渓と、大埔渓を繋ぐ約3キロのトンネルです。
嘉南大圳計画が持ち上がった際、官田渓の水量だけでは不足していることから3.1km離れた大埔渓から取水することとし、堰堤と併せてつくられました。
この掘削工事では石油ガスなどによる爆発事故が幾度となく起こり、犠牲者が出ました。この時亡くなられた人々の名前はすべて殉工碑((上)参照)に日本人・台湾人分け隔てなく刻まれました。
嘉南大圳建設の中で、最も過酷だった烏山嶺隧道の掘削。
それを100年近い時を経て新たにつくることとなったのです。
この新道工事の担当者の方に直接お話を聞く機会があったのですが、曰く「八田技師のおかげで私たちは工事を進めることができた」と。
どういうことかというと、新道工事のために新たな掘削場所を調査するわけですが、その調査に役立ったのが、與一が残した調査記録でした。
與一は当時の工事の事前調査やその後の爆発事故が起きた場所をすべて記録し、それを大切に保管していました。
新道工事では、與一たち先人が多くの犠牲を払って開通させた隧道の記録を基に掘削場所を定め、一人の犠牲者を出すことなく無事に工事を終えることが出来たのでした。
新烏山嶺隧道の工事は2018年5月に開通し、その記念に貫通箇所の岩石が記念品として残されています。
今回の「遺品里帰り展」では、與一・外代樹夫妻の遺品の他に、この記念石を展示しています。
與一が遺したもの―それは嘉南大圳工事の記録であり、こうした先人たちの血と汗の記憶が次世代の人々の命を守ったのでした。
この新烏山嶺隧道以外にも、嘉南大圳では適宜点検を行い、貯水能力の低下を招く土砂流入を防ぐ目的での西口土堰堤築造(1947 年供用開始)や、曽文渓の流量を調節する目的での曽文水庫の新設(1971年供用開始)などの重要施設について、現在に至るまでおよそ20年スパンで改修工事が進められています。
このように、八田與一が50年保つようにとつくったダムが今なお現役で活用されているのは、現地の台湾の人々が適宜修繕し、新設していくという不断の努力によって成り立っているのです。
與一の孫にあたる八田修一さんは、嘉南大圳着工100年の記念の年に、壇上で次のように語りました。
「この嘉南大圳が100年近くも運用されているのは、台湾の人々が大切に扱ってくださっているからです。祖父にかわって御礼申し上げます。」
式典では日本の本当にえらい方々もビデオメッセージを寄稿していましたが、この視点に触れられたのは八田修一さんだけでした。
この視点こそ、お互いに敬意をもって友好を深めていく、真の国際親善の在り方ではないでしょうか。
当時偉人館に入って一年目だった筆者は、この修一さんの言葉に深く感銘を受け、偉人顕彰において深く胸に刻んだ言葉でした。
與一がつくった嘉南大圳は間違いなく素晴らしいものであり、今なお台湾の人々にとって大切なインフラとなっています。
そして、現在に至るまで嘉南大圳が現役で運用されているのは、台湾の人々が與一が遺したものを活用し、敬意をもって改修しながら維持しているからこそなのです。
当たり前のようで意外と見落としがちなこの視点を大切にして、何事もお互いに敬意をもって友好を深めていきたいですね。