見出し画像

③悟堂と『野鳥ガイド』

さて、一か月以上もご無沙汰してしまいました…。
皆さん前の内容は覚えておられますかね?私はうろ覚えです。
 
色々締切に追われる日々が少し収まってきたので、そろそろ本腰いれて更新していきますよー!…多分。(……可能であれば…)
 

悟堂と日本野鳥の会

悟堂が日本野鳥の会(現・公益財団法人日本野鳥の会)を創設し、雑誌『野鳥』を刊行したのは、昭和9年(1934)の事でした。
創設時のメンバーをみてみると、名だたる鳥類学者の他、泉鏡花柳田國男(民俗学者)、北原白秋(詩人)、荒木十畝(画家)等々、当時の知識人・文化人の名が数多く見えます。
 
同年6月、富士山麓須走で日本最初の探鳥会が悟堂主催で開催されました。
ここに参加したのは、柳田國男や北原白秋ののか、金田一京助(言語学者)・春彦(当時学生)親子、などやはり当時著名な知識人・文化人たち。
しかし、鳥の事に関しては素人だったり、山野を歩いた経験のない人もいました。
こうした人たちを相手に、悟堂は色んな角度からこの探鳥会を楽しめるように、数日前からの下見や何通りものコースを考えておくなど、入念な下準備のもとに行います。

右端が悟堂、後ろの富士山は合成

当時、唯一の学生参加だった金田一晴彦によると、朝から歩き回るために前日に団体で一泊をしたそうですが、個性が強烈な面をまとめるのが大変そうだったといいます。
(悟堂も十分強烈な個性の持ち主なのですが…)
四六時中ムスッとした人やらギャーギャー騒ぐ人、基本物静かな北原白秋も酒を見つけるや悟堂を捕まえて深夜2時まで飲んでいたそうで…。
さながら山荘で繰り広げられる金田一青年の事件簿。
 
因みに白秋は翌朝の探鳥会で鳥の卵の美しさに感激のあまりその場で号泣し、悟堂もビックリしたとかなんとか(流石詩人)。
 
このように、発足当初は多くの変じ…もとい文化人・知識人の支持を得て活動を続けていきますが、「野鳥」という言葉が世間一般に爆発的に広まったのは、昭和10年(1935)に発刊した『野鳥と共に』(巣林書房)からでした。
 
放飼の記録などを綴った本で、12月に発売して年内に初版を売りつくしたという盛況ぶり!
さらに徳富蘇峰が日日新聞(現・毎日新聞)上で絶賛したことがブーストとなって、最終的に15万部以上を売り上げるベストセラーとなります。
 
こうした活動を続ける中で、次第に探鳥会を始める人、団体が増加しはじめ、また日本野鳥の会も全国各地に支部ができ始めるなど愛鳥運動は当時の日本列島全体に広がっていきました。
 
そんな中で待望されていたのが、山野を巡る際に一般人でも楽しめる野鳥図鑑でした。

『野鳥ガイド』の刊行

昭和13年(1938)、日本野鳥の会は『野鳥ガイド 上巻・陸鳥篇』という本を刊行します。
解説は中西悟堂、挿絵・装丁は中西家書生の平岩康熙が担当。

『野鳥ガイド 上巻・陸鳥篇』(初版)日本野鳥の会、1938年

予約募集広告には「愛鳥家・登山家・歌人俳人・画家・学生諸君のハイキング必携書!探鳥旅行の鍵!」「価格低廉の携帯大衆版!!」といったキャッチコピーが踊ります。

『野鳥』第五巻第二号(日本野鳥の会、1938年)

・一般向け!
・安い!
・携帯書!

を売りにしていたことが分かります。

80銭とありますが、現在でいうと大体1000~1500円前後でしょうか。
確かに安い。
 
実際の中身はこんな感じ。

『野鳥ガイド 上巻・陸鳥篇』(初版)日本野鳥の会、1938年

1ページにつき1種の鳥の挿絵と解説を掲載する本当にコンパクトな内容ですが、これが大いに受けて年内に第三版まで、戦後も重版が続くベストセラーとなりました。

鳥類学者たちの視線

悟堂は所謂大学などで学術的に鳥の事を学んだ鳥類学者ではなく、愛鳥家でした。
こうした悟堂の活動や『野鳥ガイド』を、当時の鳥類学者たちはどのように捉えていたのでしょうか。
鳥類学者の内田清之助の序文が載せられています。
全文引用してみましょう(旧字旧仮名は新字新仮名に変更)。

 日本野鳥の会が出来てからもう四年の月日が経った。四年と云えば決して長い歩みではないけれども、此間、世人の野鳥への思慕関心は従前とは比較にならぬほど深甚なものになっている。同会を始め、科学知識普及会、鉄道省、其他関東関西の新聞社等主催の探鳥会が常に盛況を呈して居るのに徴しても、這般の消息は卜する事が出来るのである。小鳥を籠に入れて楽しむ趣味は古来あっても、山野に鳥の声を尋ね歩くが如き風潮は、実に伝統のページに一線を画するもので、情緒の貧困が憂えられる現代人に、それはどんなにか和やかな潤いとなりつつあることだろう。そして事茲に到るまでには、なんと云っても中西悟堂君の大いなる努力を認めない訳には行かぬ。しかも結果に対する喜びは独り同君のみではないのである。
 こうした時代に、野外で鳥を知る手引となるような書物が要求されるのは当然である。私自身、何度其の声を聞いたか分からない。実を言えば、そうした書物がこれまで欠如して居たというが如きは、この世間一般の野鳥熱の昂揚に対して聊か未責任な現象だったのであるが、然も、其種の大衆向きの解説書を著わすことは、確かに難事業でもあったのである。此点、中西君は蓋し最大の適任者となさねばなるまい。「野鳥ガイド」の誕生は、当然現るべき書物が当然の人に依って編纂されたもので、野鳥ファンの絶賛は想望に難くない。殊に春夏探鳥の好季節を前にして本書の上梓を見た事は、もっとも其の時を得たものと云えよう。敢えて歓びを以て序とする。
      昭和十三年二月
                内田清之助

日本野鳥の会発足から4年で探鳥会が瞬く間に世間へ広がっていたこと、一方でそうした世情に即した大衆向け野鳥手引書がなかった(ここは誇張表現)ことが述べられています。
そして、その本を作るうえで、中西悟堂が最大の適任者だ―と内田は言います。
 
内田は鳥類図鑑『日本鳥類図説』上・下・続巻(警醒社書店、1915年)を刊行するなど当時既に鳥類学者として第一線で名を馳せていました。

学術的な部分では悟堂よりも詳しいはず…
にもかかわらず、悟堂を適任者だと言ったのは何故か。
 
そもそも、悟堂に日本野鳥の会を創設・会長への就任を提案したのは、鳥類学者の面々でした。
 
いわゆる学者肌の人たちは、本格的な図鑑や学術論文の執筆は得意分野であっても、一般大衆にも分かりやすく鳥の魅力を伝えるのは不得手でした。

そんな時に現れたのが、愛鳥家・中西悟堂

愛鳥家ならではの知識と類まれな文才、野鳥保護に対する情熱…
鳥類学者たちにとって、自分たちでは埋めきれない穴を埋めてくれる打ってつけの逸材だったわけです。
 
実際、彼らの目論見通り、悟堂は世間一般に鳥の魅力を届け、愛鳥運動が盛んになって行きました。
悟堂もまた、彼ら鳥類学者の知識を借りながら『野鳥ガイド』を完成させます。
お互いの長所を存分に生かして作成した大衆向け野鳥図鑑―それが『野鳥ガイド』でした。

なお、『野鳥ガイド』が大衆向けガイドブックの走りだったわけではなく、同時期に色々な鳥類愛好家たちが本(しかもカラー版)を出しています。
そして「序」は大体内田清之助。
したがって、とてつもなくセンセーショナルな作品!でもなかったわけですが、それでもベストセラーになったということは、多くの人を惹きつける魅力が『野鳥ガイド』にはあったのかもしれません。

私見ですが、悟堂は「あまり専門的にわたらぬ常識的ガイドブック」を目指したことを「はしがき」で述べており、「大衆向け」であることをとことん追求した気配り(平易な文章、シンプルな構成)によって、 とっつきにくさ(専門性)が排除され、多くの人々が愛用したのではないでしょうか。

さて、先ほどの『野鳥ガイド 上巻・陸鳥篇』予約広告には
他のガイドブックも続々刊行します
とあります。
というか、「上巻」とある通り、「下巻」が予定されていたのです。
 
その名は『野鳥ガイド 下巻・水禽篇』
 
水禽篇は悟堂ではなく、当時野鳥の生態写真家として知られた下村兼史が解説・挿絵を担当。
さらに悟堂としては、廉価版として出版するために泣く泣く我慢したカラー版『野鳥ガイド』―すなわち『原色野鳥ガイド』の構想も当時からありました
 

 
『野鳥ガイド』シリーズの中で、実際に刊行されたのは『上巻・陸鳥篇』だけ…
 
え、なにゆえ?why?
 
とおもった方、その理由は是非企画展でご確認ください(^^)
 
『陸鳥篇』の原画、幻となった『水禽篇』の見本刷り、同じく幻の『原色野鳥ガイド』の原画…大半が本邦初公開でございます。
 
と、「続きはウェブで」の逆方式宣伝をかましたところで、 次回は悟堂の周りの人々-特に鳥類学者について紹介します。

参考文献
中西悟堂『野鳥ガイド 上巻・陸鳥篇』(日本野鳥の会、1938年)
金田一晴彦「”私のことは書かないで”」(『野鳥』昭和五三年六月号、1978年)
『原色野鳥ガイド』研究会「幻の野鳥図鑑『原色野鳥ガイド』の謎を追う」(『野鳥』第87巻第3号、2022年)