福祉の歴史に金沢あり! 企画展紹介―陽風園編①―
9月14日(土)から始まりました後期企画展「福祉は金沢(ここ)から始まった!―陽風園と善隣館―」
金沢から始まった! とはまた大仰な…と思われると思いますが、実は当館の常設展示で顕彰している小野太三郎(1840-1912)は「日本の社会福祉の祖」「個人による社会福祉事業を初めて実践した人物」として知られています。
そして、今回のタイトルにもある陽風園―正式名称は「社会福祉法人陽風園」は小野太三郎を園祖とする社会福祉法人で、令和5年(2023)に創立150周年を迎えました。
ということで、ここでは小野太三郎と陽風園の歩みを展示資料とともに紹介していきたいと思います。
小野太三郎と陽風園
金沢では江戸時代前期より、加賀藩が運営した「非人小屋(のち御救小屋に改称、非人とは生活困窮者の意)」による生活困窮者の扶助が行われていました。こうした政策を当時は「恤救(じゅっきゅう)」と呼びました。
明治維新を迎えると、金沢は上級武士の上京や中下級武士の事業失敗による困窮がすすみ、人口減少と経済の悪化が深刻な問題となっていました。
こういう時こそ御救小屋!
のはずですが、廃藩置県の際に加賀藩による恤救政策も廃止され、御救小屋も既に閉鎖していました。
す…救いはないのか…
で、金沢市は何をしていたのかというと、旧藩士たちが勢力争いをしていて政策がぜんぜん進まずという状況。
す……救いはないのか……
こうした地獄のような時代を迎えた金沢で、困窮に苦しむ人々を助けるために立ち上がったのが小野太三郎でした。
太三郎は小屋一棟を購入し、そこに当初は目の不自由な人を入居させました。やがて老若男女問わず生活に苦しむ人々を受け入れ、規模をどんどん拡大し、太三郎が運営していた小屋は「小野救養所」と呼ばれました。
太三郎は障害者支援、老人福祉のみならず、児童福祉や診療など多岐にわたる福祉活動を一手に担いました。まさに現代の社会福祉の原型を実践していたのです。
太三郎が「日本の社会福祉の祖」とまで言われるのは、個人による初の社会福祉事業の実践者であるだけでなく、その活動が現在の社会福祉の礎となっている点も含め、その活動内容が先進的であったことに起因するのではないでしょうか。
明治も後半に入ると、ようやく市政が動き、小野救養所は財団法人化されて「財団法人 小野慈善院」(1906)として新たな一歩を踏み出しました。
小野慈善院の活動は市内のみならず国内外からも支持され、支援の輪が広がりました。
こちらは当時ニューヨークに住んでいた高峰譲吉が、小野慈善院の特別会員として寄附を行ったことを示す資料です。
明治39年当時の百円ですので、およそ40万円の寄附といったところ。
太三郎の死後も小野慈善院は活動を続け、太平洋戦争中も疎開者の受け入れなどともに苦しい時代を駆け抜け、戦後に「財団法人 小野陽風園」(1948)として再出発しました。
現在は「社会福祉法人陽風園」(1969)となり、「小野」の文字は名前からなくなりましたが、小野太三郎の精神は今も陽風園に息づいています。
「仁愛の精神」
太三郎は生前「人ちゅう人は可愛くてなりません」と小野救養所で暮らす人々に深い愛情をもって接していました。
入所者とともに起き、同じものを食べ、世間話をし、辛苦をともにしながら活動を続けていきました。
ある日、自分も救養所で奉仕活動をしたい!と太三郎を訪ねてきた若者に、太三郎は一杯のご飯を差し出します。
それは、普段入所者そして太三郎が食べている、残飯からつくったご飯でした。
「これを臭くて食べられんと思うようだったら、とても他人のために尽くすことは出来ん」
太三郎は、当時の福祉現場の大変さとそれに捧げることへの覚悟があるかを、一杯のご飯で示したのです。
太三郎が背中で示した「仁愛の精神」は現在も陽風園の信条として明記され、受け継がれています。
ということで、今回は陽風園編ということで、小野太三郎と陽風園のあゆみについて紹介しました。
次回は太三郎の精神を受け継いで福祉に尽くした人物について!
今回紹介した資料のほかにも、社会福祉法人陽風園様よりお借りした様々な資料が展示してあります。是非ご覧くださいませ。