④平和の祭典(その6)
五りん「続きまして1932年ロサンゼルスオリンピックで!これまたね、三段跳びの選手でございますからね。大島鎌吉!」
大島「えっ、呼んだ?」
――第42回「東京流れ者」より
「いだてん✕大島鎌吉」も、ここに至るまで記事にして12回…ようやく本編描写とリンクし始めました。
…いや長いよ!!もっと短くまとめろ馬鹿やろめ!!
と、まーちゃんから怒られそうですが、あと数回、お付き合い頂ければ…(^^;)
それでは、「東京オリンピックをつくった男」大島鎌吉の活動を見ていきましょう。
設立!組織委員会(第41回)
さて、我等が大島鎌吉は次の台詞で初登場を果たします。
大島「陸上、水泳はもちろんながら、レスリング、重量挙げ、体操はメダルを狙えるでしょうね」
田畑「足らんな! 開催国だぞ日本は」
「ほかには?」
大島「バレーボールですね」
田畑「うん?」
大島「男子もだが、女子の凄いのが大阪に」
――第41回「おれについてこい!」より
ただしこの時は人名テロップが出ていないので、コアな人以外は誰このおじさん?だったはず。
というか、何をやっていたかは具体的には描かれてないので、結局どんなことをしていた人なんだろう…?と思う方も多いかもしれません。
上のシーンではまーちゃん達と種目決めなどを協議していますが、この時の大島のポジションは選手強化対策本部副本部長。
事務総長と対策本部の本部長を兼任していたまーちゃんから「お前暇そうだからやれ」(全く暇じゃない)と言われ、副本部長に就任していたのでした。
したがって、選手強化のNo.2になるわけですが、事務総長兼任のまーちゃんは資金集めに奔走しつつ、選手強化については大島に一任していたので、実質選手強化の統括役。
大島の差配が選手の成績に大きく左右する大変重要な立ち位置です。
ドラマの大島は、平原テツさんの柔和な雰囲気も相俟って温厚なキャラとして描かれていましたが、実際は駿台スポーツボスの異名をとる、まーちゃんに負けず劣らずな頑固者(普段は温厚な方だったようですが)だったことはここまでたっぷり確認してまいりました。
というかまーちゃんともバチバチにやり合っていた仲…。
「直情怪行の田畑。理路整然の大島。」(伴『スポーツの人 大島鎌吉』p157)、岩ちん(岩田幸影)も頑固一徹なことろが似てると評する、水泳と陸上の二大頭脳が選手強化でタッグを組むという夢の競演が実現したわけです。
…そう書くと、なんだかわくわくしてきますね!
大島ら選手強化対策本部は手始めに、「選手強化五ヵ年計画」を発表。
一年目。第一次基礎準備期間(昭和三十五年)……本部組織機構の確立。コーチ制度の設置。トレーニング・ドクターの配置。スポーツ科学研究の基礎固め。一般的強化と新人の発掘
二年目。第二次基礎準備期間(昭和三十六年)……トレーニング思想の確立。からだづくりの展開。国際交流の実施。立地条件の整備。
三年目。第一次本格的強化活動期(昭和三十七年)……からだづくりの積極的実施。海外事情調査。精神教育の実施。トレーニング用器具、用具の整備。
四年目。第二次本格的強化活動期(昭和三十八年)……体力と技術の融合。重点的英才教育。東京国際スポーツ大会での実力評価。トレーニング・センターの確保。健康管理の実施。
五年目。仕上げ期(昭和三十九年)……臨時体制の確立ちおオリンピック代表選手団結成準備。仕上げ期トレーニングの実施。健康管理の実施。
――『スポーツの人 大島鎌吉』p188,189
5年後のオリンピック本番に向けて、具体的な構想が描かれています。
この計画案は高度経済成長期の産業界がモデルにしたとか(すごい)。
大島は“青少年のからだづくり”を目標として、スポーツ科学研究委員会を設置し、最先端の科学トレーニング方法の導入を進めていきます。
この機に乗じて、根性論・経験主義が主流だった日本のスポーツ界の育成方法にメスを入れるつもりだった様子。
例えば来日したアベベ選手の身体中にコードをペタペタと貼り付け、筋力の動きなどを医学的に検証したり、自転車エルゴメーターで持久力測定をしたり…今では当たり前に行われているデータ取りを本格的に導入しはじめたのでした。
そしてその研究成果をもとに、より実践的なトレーニング方法を確立していく―こうした科学トレーニング方法には批判も多かったようですが、大島は気にせず進めていきます。
また、海外の一流コーチはもとより、恩師のカール・ディームをはじめ、哲学、教育学、生理学といった他分野の学者をどんどん招き、コーチ達に講義を受けさせていきます。
「スポーツの強化対策で哲学ぅ!?」とやはり仰天されたようですが、大島は所謂”心技体の一致”が重要であると考え、選手の精神面の研究・強化も推し進めていったのです。
このように、まーちゃんに一任されたことをフルに活用してどんどんと新しいスポーツ施策を実践していきますが、大島の恐ろしいところは、これと同時並行でスポーツ少年団設立に奔走していたことです。
日本スポーツ少年団の発足(第41回、42回)
組織委員会設立より遡ること9か月前―大島はオリンピックメダリスト・クラブの面々などと共に、とある人物のもとにスポーツ少年団設立を直談判しに行っています。
その人物とは、岸信介首相(当時)。
(吉田茂のもとに直談判に行ったまーちゃん達を思い出しますね)
以前お話した通り、昭和28年(1953)に発足した横浜市健民少年団を皮切りに、全国に波及していきます。
この運動を支えたのが、当時横浜市長だった平沼亮三と大島でした。
(大島にとって大きな理解者だった平沼は、昭和34年(1959)2月、東京招致決定の報告を聞く前に亡くなっています。合掌)
大島はこの少年団運動について国を挙げて取り組むべきだと考え、「未来の青少年を心身ともに育成するために」という口説き文句で岸首相を説得。
岸首相もスポーツ少年団の重要性を理解したようで、早速文部省が管轄となって、スポーツ少年団を設立する動きを見せます。
しかし、大島からすると文部省の姿勢は“なあなあ”に見えたようで…
ことあるごとに文部省と対立していきます。
大島から言わせれば、オリンピックの対面上の理由(海外から少年団のないことを笑われない)のためだけだけとりあえず作りました感全開であり、所謂“箱モノ行政”だと批判。
大島は、
「根本の理念、哲理なくして少年団の発展も進歩もない」(『大島鎌吉の東京オリンピック』p199)
と、器(組織)だけ作ってもそこにいれる魂(哲理)がなければ機能不全に陥ってしまうことを懸念しました。
こんな風に喧嘩腰でガンガン食って掛かる頑固者の大島に対し、だんだん意固地になる文部省側…
「ドイツのスパイが!」「このこっぱ役人の馬鹿野郎!」(同上p200)とののしり合いまで始める険悪っぷりだったようで、大島の提案は是が非でも受け付けないような状況になっていきます。
文部省側からすれば設立に向けて実際の準備をしているのは自分たちなのに、いちいち横から突っかかってくる(しかも痛いところを突いてくる)大島は色々癪に障る存在だったのでしょう。
アンタはそれに集中してりゃあいいが、こっちは色々抱えてんだよ…理想ばっかり押し付け的やがて、と。
しかし文部省にとって厄介なのは、大島は決して口だけの男ではないこと。
文部省が器しか作らねえんなら…と、ひそかに信のおける学者や大島に共感した文部省の役人(後でバレて大目玉食らった模様)などを集めて合宿を行い、1週間かけて少年団の哲理を制作します。
そうしてできたのが、5万字にも及ぶ『期待される少年像』でした。
この動きを知った文部省側も『期待される青少年像』を作成し、大島の哲理に対抗します。
が、当時の文部大臣や皇太子(現上皇陛下)から絶賛されたのは、大島の『期待される少年像』でした。
このように、大島は組織や施設をつくるならば、その中に魂を吹き込まなければ意味が無い!というのを信条にしていました。
「哲理は、あたかも社の中の神像です。神像が入って初めて社となると同じように、揃いの洋服を着せたとか、靴を履かせたとかという外見だけで、スポーツ少年団は成り立ちません。その中には魂がなければなりません。その魂をつくる。そして、魂が動き出す。(後略)
――『大島鎌吉の東京オリンピック』p201,202
大島がスポーツ少年団設立に躍起になっていたのは、子どもたちの健全育成ももちろんのこと、「スポーツは国民大衆とともにあれ」という日本社会へのスポーツの浸透=スポーツの裾野を広げていくことを長年の目標としていたからでした。
こうして昭和37年(1962)に創設された日本スポーツ少年団は、文部省の想定をはるかに上回る速さで社会に浸透し、今年令和4年(2022)で創立60年を迎えました。
このように、大島は東京オリンピックという絶好のチャンスをフル活用して、スポーツ科学の導入など日本スポーツ界の発展及び、日本社会へのスポーツの浸透を図るために様々な施策を推し進めていきます。
(何事も大義名分と予算がなければ変革は難しいですからね…)
なお、まーちゃんはこの少年団設立には一切興味を示さなかったようで。
こういう考え方の違いが、“蚊帳の釣り手”論争につながる訳ですね。
ただ、両者ともアプローチ方法は違えど、スポーツを愛し、お互いの実力は認めあっている仲。時には激しく衝突するけれども、時には二人力を合わせてことに取り組んで行きます。
ドラマでは組織委員会設立後から登場して、まーちゃんを慕う面々の一人として描かれていましたが、所謂根っからの“田畑派”である東龍さん、カクさん(松澤一鶴)、いわちんの三人組とは、やや異なる立場(外様)でした。
特に東龍さんに対しては体協会長や都知事という最高責任者の立場にいたせいか、色々辛辣な批判を浴びせていましたが、弟の東俊郎(医学博士)とはスポーツ科学研究の分野でタッグを組んでおり仲も良好だったようです。
兎にも角にも、まーちゃんが資金集めやムードを盛り上げるためにあれやこれやと東奔西走している間、大島がまーちゃんから一任された選手強化を推し進めていったのでした。
そして、昭和37年(1962)の7月に国会へ召喚されたまーちゃんは、そこで選手強化を名実ともに大島へ任せることを宣言しています。
○田畑参考人 選手強化のことを説明いたします。
実は私、選手強化につきましては相当意見もありますし、また阪上君がここに見えておりますけれども、日本の水泳を世界一にしたという実績もありますので、これについては非常な執着もありますけれども、何といってもオリンピック組織委員会の最高責任者でありますし、そっちの方が非常に多忙でありますので、また閣僚懇談会におきましても、責任体制をはっきりしろという御意見もありますので、私は、この際、大島君にお願いして、オリンピック組織委員会の方に専念するために、選手強化対策本部長は辞任いたしますけれども、過去のあれで十分わかりますから、一応おもなことを御報告申し上げたいと思っております。(後略)
第40回国会 衆議院 オリンピック東京大会準備促進特別委員会 第6号 昭和37年7月31日
この後の話で、オリンピックムードが全然盛り上がっていない(本編でも度々話題になってました)のでそっちも何とかしていきたいと語っています。
まーちゃん自身も本当は選手強化に色々口を出したいことはあるけれども、ムードの盛り上げや全体統括に邁進しなければならないと、大島への全権委任を提言したのでした。
あのまーちゃんがそう決断するのですから、大島を如何に信頼していたかが分かります。
そしてこの数週間後に巻き起こるのが…あのジャカルタ事件です。
次回:東京オリンピックをつくった男
参考資料・文献
大島鎌吉
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)
伴義孝『大島鎌吉というスポーツ思想―脱近代化の身体文化論―』(関西大学出版部、2013年)