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秋聲たちが過ごした四高

(※この記事は、旧雑報で2021年 6月9日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。本企画展は8月31日(火)まで休館のため中断中-会期9/12迄)

灼熱の季節が迫り来るのを日に日に感じる今日この頃・・・。(※本当に灼熱になっちゃいましたね…2021/8/8追記)

さて前回前々回と番外編として北条時敬・桐生悠々の関係資料について紹介しましたが、両者と秋聲には共通点があります。それは、金沢出身であること、士族身分であること、そして同じ学校にいたこと。

ということで、今回は『光を追うて』でも登場する石川県専門学校及び第四高等中学校(現・金沢大学)について触れていきたいと思います。

今回の企画展ポスターには、学生時代の秋聲と悠々の姿とともに第四高等中学校の校舎が描かれています。

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現在も校舎は重要文化財「旧第四高等中学校」として保存され、四高記念文化交流館として活用されています。

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君写真と違わない?

あれ?そもそも旧四高って「旧制第四高等学校」の略じゃなかったっけ?「第四高等…中学校」??と混乱するのもやむなし。

小学校→中学校→高等学校・高等専門学校→大学・専門学校…とある程度一本化された戦後の教育制度と異なり、戦前の特に明治期の教育制度は頻繁に名称や分類が変わるためまことに複雑怪奇…。ここを詳しくしゃべるとそれだけで論文みたいな文量になってしまいます。

ざっくりと説明しますと、第四高等中学校とは旧制第四高等学校の前進にあたり、明治19~27年(1886-94)の期間に用いられた呼称でした(実際に第四高等中学校が設立されたのは翌20年)。

秋聲は明治19年石川県専門学校に入学。同年高等中学設置に伴う専門学校の廃校が決まり、翌年第四高等中学校の入学試験を受けて補充科へ入学しています(慌ただしいですね)。この際、第四高等中学校の校舎は石川県専門学校のものを再利用しました。
この専門学校時代の建物こそ、企画展のイラストの校舎です。

その後、色々あって秋聲と悠々は明治25年(1892)に一度自主退学をするのですが、赤レンガの新校舎が竣工したのは翌26年(1893)。同年悠々は復学します(ここの経緯はまた後日)。

その結果、悠々は赤レンガの校舎を経験しているのですが、秋聲は前進の校舎時代しか在学していないことに。
石川近代文学館さんの企画展「北辰の青春―赤レンガ校舎で学んだ作家たち」(※コロナのため会期終了2021/8/8追記)ポスターに秋聲がいないのは、別にハブられた訳ではなく秋聲がギリギリ被っていなかったためです。

さて、本当にざっくり石川県専門学校や第四高等中学校について説明しましたが、今と制度が異なるため「??」がつくところが数多あると思います。興味のある方は是非色々調べてみてください(丸投げ)。

次回は石川県専門学校及び第四高等中学校時代の秋聲と仲間たちについて見ていきましょう。