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④野鳥の会の面々-悟堂と豪華な仲間たち-

金沢ふるさと偉人館

見る人が見たら「おぉー…」と唸る面々が集まっているサムネイルの写真。
こちらは「野鳥の会創立満五周年記念座談会」の集合写真です。

この座談会の様子は雑誌『野鳥』第六巻第六号~八号(昭和14年)に連載されました。

(裏表紙では『野鳥ガイド・水禽篇』の広告も)

なお、この座談会が行われた銀座「さんみや」は、鴨料理のお店だったりします。
大らかな時代ですね。

写真に写っているのは、悟堂のほかに
 
堀口守   編集・速記者
小杉放庵  画家 歌人
堀内讃位  写真家 「さんみや」店主
清棲幸保  鳥類学者 華族(伯爵)
西沢笛畝  画家 人形玩具研究家
黒田長禮  鳥類学者 華族(侯爵)
山階芳麿  鳥類学者 華族(侯爵)
鷹司信輔  鳥類学者 華族(公爵)
荒木十畝  日本画家 
内田清之助 鳥類学者
朝倉文夫  彫刻家
柳田國男  民俗学者
兼常清佐  音楽学者 音楽評論家
 
という面々。なお、集合写真には写ってないですが、途中退席者として杉村楚人冠(ジャーナリスト、随筆家)や坊城俊良(宮内官、伯爵)もいたようです。
今回は初期日本野鳥の会ひいては悟堂を支えた人々―写真の面々について紹介したいと思います。

まず、メンバーを肩書ごとに分類すると、

カメラマン(堀内讃位)
美術家(小杉放庵、西沢笛畝、荒木十畝、朝倉文夫)
鳥類学者(清棲幸保、黒田長禮、山階芳麿、鷹司信輔、内田清之助)
その他学者(柳田國男、兼常清佐)
 
という風に分かれます。大別するならば、芸術方面と学術方面の著名人が多いわけですが、我らが悟堂は野鳥愛好家枠になります。

専門外の専門家たち

小杉放庵(放菴,1881-1964)
栃木県日光市生まれ。洋画家、日本画家、歌人などとして活躍し、横山大観らの画家や、田山花袋、芥川龍之介などの文学者とも交友が深い人物です。
日光市には小杉放菴記念日光美術館があります。
野鳥の会とのかかわりを見ると、戦前~戦後にかけて雑誌『野鳥』の表紙絵を度々描いています。
 
荒木十畝(1872-1944)
長崎県大村市生まれ。日本画家として帝展の審査員や女子高等師範学校の教授を務め、帝国芸術院創設時には会員のひとりとなりました。
悟堂によると、野鳥の会創設に際し、花鳥画の大御所だった荒木へ声をかけてみたところ、すぐに賛同し協力を願い出てくれたといいます。荒木の加入によって芸術方面へも野鳥の会の活動が波及していきます。「野鳥」の名を広めたこと悟堂の著書『野鳥と共に』の口絵と題字、雑誌『野鳥』の題字・表紙絵などを手がけました。ちなみにあだ名は「かみなり親父」だそう。
 
西沢笛畝(1889-1965)
東京都浅草生まれ。画家としては荒木十畝の弟子にあたります。
よく知られているのが、玩具収集家としての顔。人形玩具の収集・保存・研究を続け、長年の功績から昭和34年(1959)に紫綬勲章を受章しています。
画家として雑誌『野鳥』の表紙絵を担当するほか、卓越した玩具知識を生かして鳥の玩具について挿絵付きで紹介する「鳥類玩具図譜」を連載するなど、玩具の分野から鳥の魅力を発信しています。
 
朝倉文夫(1883-1964)
大分県豊後大野市生まれ。彫刻家として初の文化勲章を受章した人物です。台東区にあったアトリエ兼住居は、現在朝倉彫塑館として活用されています。
なお、朝倉の弟子にあたる村田勝四郎は日本野鳥の会創設メンバーであり、常設展の悟堂像は彼の作品です。
 
柳田國男(1875-1962)
兵庫県福崎町生まれ。いわずと知れた日本民俗学の樹立者です。悟堂が日本野鳥の会並びに雑誌『野鳥』を作る際に精力的に後押しをしてくれた人物であり、第一回の探鳥会にも参加しました。
悟堂は会及び雑誌を立ち上げる際、苦心の末に「野鳥」の言葉をひねり出しましたが、それを柳田から絶賛されたことで、「日本野鳥の会」「雑誌『野鳥』」に決めたと後年語っています。
 
兼常清佐(1885-1957)
山口県萩市生まれ。音響学の研究を専門としつつ、民謡研究にも従事し、その手法は柳田國男も高く評価しています。
野鳥方面では、鳥の声について音楽的視点からアプローチをしています。
 
以上、6名は所謂美術家や学者であるものの、それぞれが独特の視点から野鳥に対するアプローチをしており、雑誌『野鳥』の内容に奥行きと深みを生んでいきました。

華麗なる鳥類学者たち

さて、上述の鳥類学者の肩書をよく見てみると
清棲幸保(1901-1975)
華族(伯爵)。伊達政宗の子孫で、旧皇族清棲家教の養子。
黒田長禮(1889-1978)
華族(侯爵)。黒田官兵衛の子孫で、福岡黒田家14代当主。
山階芳麿(1900-1989)
華族(侯爵)。旧皇族。当時の今上天皇(昭和天皇)の従兄。
鷹司信輔(1889-1959)
華族(公爵)。藤原道長の子孫で、五摂家の一つ鷹司家当主。
内田清之助(1884-1975)
たばこ屋の息子。

な、なんだぁ!?この名門中の名門の集まりは!?

と、思わず目を疑ってしまう家柄のオンパレード。
実はこの他にも
・蜂須賀正氏:侯爵。蜂須賀家当主。ドードー研究の権威。
・松平 頼孝:子爵。石岡松平家当主。
など、華族出身の鳥類学者がとにかく多いのです。
 
実はこの面々、清棲を除く全員が日本の鳥類学の先駆者である飯島魁(1861-1921、士族)の弟子たちにあたります。
飯島が(1912)に創設した日本鳥学会の歴代会頭(2代:鷹司、3代:内田、4代:黒田、5代:山階)を務め、飯島の子弟で日本の鳥類学界を牽引していました。
 
そしてやはり当時から「貴族の学会」の様相を呈しており、如何ともすれば近寄りがたい気配があったとか。
なので、悟堂が「鳥好きの集まりがあるから鳥の話をしてよ」と知り合いに誘われて、ウキウキしながら参加したら、黒田・鷹司らの鳥学会のお歴々がずらりと並んでおり、度肝を抜かれたとのこと。

「鳥好きの集まり」とのみあったので、つい軽く引受けたものの、これでは来るべきではなかったと後悔した。が、もう首の座に据えられてしまっているのである。

「『野鳥』発刊のいきさつ」『愛鳥図鑑 下』p.461

鳥好きっていうかその道の専門家じゃねえか!という悟堂の心の叫びが聞こえてきます。鳥類学者の前で鳥の話をしなければならん恐怖…その恐怖に打ち勝つために悟堂がとった行動とは―

いっそグデグデに酔ってしまえば、逆に気にせんでええ!!(がぶ飲み)

というストロングスタイルでこの会を乗り切ります。
結果、見事記憶は抹消されたようですが、後日談によると学問的見地とは違う悟堂の鳥に対する姿勢にはお歴々もみな関心を示していたようです。
 
悟堂は初対面だった鷹司信輔黒田長禮の人柄について(記憶が残っているうちの)次のように語っています。

中央主賓の私の座の向い側が鷹司侯公爵であったが、「まず、お一つ」と盃をすすめられる。酒の飲めぬ私がしかたなしに一猪口干すと、「さア、もう一杯」、ついで「もう一つ」とつづけて徳利を向けられるのは、俗に言う「駈けつけ三杯」ということかもしれぬが、目をつぶってこの三杯を一気に飲んだ飲みっぷりに、「おみごと。もう一つ」とまたすすめる。……(中略)……座のおしゃべりも賑やかになり出したが、私がチラと一瞥したのは黒田候の姿であった。一言もしゃべらずに、お一人粛然として手酌の盃を口に運んでおられるのだが、羽織・袴の容姿は端然としていて一糸も乱れず、お顔も赤らんではいない。それでいて不機嫌の様子はなく、静かな微笑さえ浮かべている。鷹司公は好人物らしく、よく話されるし、柳沢伯爵などは少々乱れて、べらべらにしゃべっているのだが、さすがに福岡八十五万石とかの黒田の殿様(当時はまだ襲爵されてはいなかったが)の静かな威容に私は惹かれた

「『野鳥』発刊のいきさつ」『愛鳥図鑑 下』pp.461-462

悟堂は黒田の威容に魅了されたと語りますが、黒田は鷹司を「温厚篤実の士」「お会いする人はみななついた」と評価しています。よく話し、場を盛り上げる鷹司信輔と、静かに微笑む黒田長禮という好対照なふたりでしたが、それぞれ人を魅了する人格者だったことが分かるエピソードです。ちなみに二人は同い年で学習院時代からの付き合いなので、気心知れた仲だったのかもしれませんね。
 
鷹司らの後輩で鳥学会の5代会頭を務めた山階芳麿は、戦後に悟堂と共に「鳥獣保護法」の制定など、国や団体を相手に鳥類保護運動を進めていく戦友となります。山階が戦前につくった山階家鳥類標本館は後に山階鳥類研究所となり、現在も鳥類の調査研究・保全保護のために活動しています。
 
このように、華麗なる出自を持つ鳥類学者とも親交を深めていた悟堂でしたが、特に信を寄せていたのは内田清之助でした。
 
悟堂が日本野鳥の会を創設するにあたり、鳥類学界の代表者として意見をもらいに行ったのは内田の自宅であり、内田が大いに賛同を示してくれたことで、悟堂も覚悟を決めたことや、雑誌の在り方について色々相談をしていたようです。
 
内田は鷹司や黒田よりも年長で、師匠の飯島が日本鳥学会を作った際には幹事となって事務全般を担当。飯島亡き後、鷹司が2代目会頭となると引き続きサポートし、昭和21~22年という戦後の混乱期に3代目会頭として会をまとめあげ、後輩の黒田にその座を譲ります。
 
唯一ばりばりの庶民な出でありながら、名だたる名家の当主や悟堂たち文化人からも信任を得て学界を牽引していた内田の人徳は、こうした精力的姿勢に裏付けられていたことが分かります。

「さんみや」店主・堀内讃位

名だたる学者・美術家が集まる中で、ちょっと立場が異なるのが、堀内讃位。彼の本業は雑誌「アサヒグラフ」のカメラマンで、副業で鴨料理屋「さんみや」を営業していました。彼は趣味で日本の狩猟の様子を撮影しており、その数は7年間で3000枚以上にのぼりました。
 
堀内がやっていた「さんみや」ではこんな逸話も。

何だか狩猟を研究したり、カモ商売をやったりしていると私は徐々に銃猟反対者になりそうな気がしてならない。……(中略)……私の店では原則として銃猟したカモは使わないことにしているが、それでいてお客様の口から出て来る鉄砲玉が頗る多い。これは網や、もちや、釣りカモで補ったカモが弾を食っている何よりの証拠である。同時に弾に見舞われたがそれが致命傷とならなかった証拠でもある。

「カモに曳かれて」『野鳥の愛と憎しみ』pp.211-212

野鳥を愛し、狩猟を研究し、鴨料理屋をやっているからこその堀内の葛藤が垣間見えます。

お客様が「おや鉛の玉だ!」とポロリ卓子の上へ転がし落とした時、私はそういうお客様に対しては「あなたは運がいい人ですよ。当ったのですよ」と云って、その場の責任を免れようとする。「はあそうですか」と云って呉れるお客様はどっちかと云うと人の好い方で「何が当ったのかね?」と反問されると私は即座に参ってしまう。いくら何でも「弾に当ったんですよ」とは云いかねる。

同上p.212

…大らかな時代ですね。

それはさておき、彼が野鳥方面で特に大きな爪痕を残したのは、
『写真記録日本鳥類狩猟法』(三省堂、1939年)
の刊行です。丁度この座談会が行われた年の2月に出版されました。序文はお馴染みの内田清之助と山階芳麿。装丁は朝倉文夫という豪華ぶり。
 
この本は堀内が7年間趣味で各地を散策して撮影した日本全国の狩猟方法の記録であり、「廃絶に瀕しつヽある狩猟を記録することを最大の眼目とし、同時に狩猟を通して鳥鳥獣類の裏面の習性を研究する」といったことが「はしがき」で述べられています。
 
狩猟という、鳥類保護を標榜する日本鳥学会や日本野鳥の会関係者が出した本としては中々に攻めた内容ですが、「消えゆく狩猟法の記録」というのもまた日本の野鳥を巡る文化史としては重要な仕事でした。山階は序文の中で次のように語っています。

狩猟家として如何にせば多大の猟獲を得るかと云ふ狩猟のこつを会得することが出来ると同時に、如何なる猟法が鳥の絶滅を招き、如何なる猟法が鳥の保存に適するかに就いて一日にして其の如何を知る事が出来る様に思はれる。

山階芳麿「序」『写真記録日本鳥類狩猟法』p2

狩猟の手引書にもなる一方、鳥類保護の観点から問題ある狩猟法を確認できる様々な利用価値があるものだと高く評価しています。
 
趣味がこうじて、一流の学者からも高く評価されるほどの著書をつくった堀内。悟堂もそうですが、こうした熱烈な愛好家たちによって、愛鳥運動は広まっていきました。
 
さて、こうして面々を概観していると、日本野鳥の会が愛好家、学者、美術家という様々な分野の人々の橋渡しとして機能していたことが分かります。
堀内の本の出版に、朝倉や内田、山階が協力していることは、その好事例といえましょう。
 
なお、こうして集まった面々が座談会で何を話したのかというと、
締めのお話は

野鳥の味

でした。
 
大らかな時代ですね。
 
次回は、悟堂や鳥類学者たちを持って「日本一の鳥類画家」と言わしめた
小林重一について。
 
引用・参考文献
『野鳥』第六巻第六号~八号、1939年
堀内讃位『写真記録日本鳥類狩猟法』三省堂、1939年
    『野鳥の愛と憎しみ』出版東京、1952年
中西悟堂追想文集刊行会編『悟堂追憶』春秋社、1990年
中西悟堂『愛鳥自伝 上』平凡社、1993年
『野鳥開眼』永田書房、1993年
『日本鳥学会誌』vol.61、2012年

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