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秋聲と悠々が過ごした金沢―『光を追うて』にみえる影②

(※この記事は、旧雑報で2021年 5月15日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。本企画展は8月31日(火)まで休館のため中断中-会期9/12迄)

前回は明治初期の金沢の様子―金沢にとって逆境の時代を概観しました。今回は秋聲が当時の金沢、特に士族の暮らしをどう見ていたかについて、『光を追うて』の記述から眺めてみたいと思います。

徳田家は代々加賀八家横山家家臣の家系であり、困窮士族の例に漏れず生活は年々切迫していったようです。幼少期に遊んだ友達との思い出語りをみてみましょう。

子どもの頃は女の子こと一緒に遊ぶことが多かったらしく、かくれんぼやままごとをしたり人形遊びをしたり、ふたりで寝そべってひなたぼっこをしたり、その父親の禿頭を眺めて楽しんでいた(酷い)、というほっこりとした幼年期の逸話を語っています。

そして、最後にこの一文。

この娘たちは、後年相前後して隣国の暗黒街へと落ちて行ってしまった。

…ほっこり気分が一気に奈落の底に落とされた心地。しかし、「零落の一途を辿った」士族の子女の間でこうした出来事は決して少なくなったことが語られています。

……彼女たちは士族の子弟の多くが、土地の名物とまでいわれた巡査になったように、又は裏口から窃かに紙屑買いや古道具屋の手に売られて行った刀剣や茶器や、鏡や手函や髪のものや、後にブルジョアの蔵に納まって、その家伝来の重宝のように言われ、中央都市の好事家や骨董商に涎を流さした骨董品のように、みな散々離々にそういう境界に陥ちて行った。

金沢士族の男子は県外に出て(=地元に働き口が足りない)教師や巡査になることが多く、それ故「土地の名物」と揶揄されていました。ちなみに、秋聲はこうした士族の苦難に同情的かと思いきや

……理財に思慮のあるものだとか、又は身分の低いものでも、不断から生活を用心していたものは可かったが、長いあいだ扶持に頼って来て、明日のことも考えず、貨殖の事にも疎いうえに、泰平に馴れて、衣服や持ち物に贅を尽くし、酒や料理に味覚の洗練された人達もこの城下には相当多かった。

と、割かし辛口評。また、自分の家族についても、「その時分父や兄達が何をしていたかは、今になっても一つの謎だが、勿論公債の居食いをしていたのに違いなかった。」(居食い:働かずに手持ちの財産で生活すること)とどこか表現が辛辣です。

父兄(幕末生まれ)と秋聲(明治生まれ)の価値観の違いもあるでしょうが、この辛口というか毒舌というか、淡々とした歯に衣着せぬ評価が飛び交う文章を楽しむのも、秋聲作品の楽しみ方の一つではないでしょうか。

ということで、今回は秋聲がみた金沢の、特に影の描写(困窮士族の暮らしぶり)を取り上げてみました。苦しい生活の描写は多く見られますが、第三者目線から淡々と(時に辛辣に)語っているので、悲壮感はそこまで感じないです(ドライな文章故に「ぐえ~」となることはありますが)。そのためさらっと読めますが、読めば読むほどその文章に惹かれていく。そんな魅力を秋聲初心者の自分は『光を追うて』から感じました。是非皆さんもレッツトライ秋聲作品。

次回は『光を追うて』に登場する学校について紹介したいと思います(多分)。