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館蔵品展【前期】の見どころ紹介⑤ー中橋徳五郎編ー

偉人館がこれまで集めてきた偉人に関する資料をピックアップして公開している
館蔵品展「いじんコレクション大公開!」
その前期―明治・大正編―について引き続き見どころをお伝えしていきます。

前期展ラストを飾るのは、講座もおこないました中橋徳五郎です。

大正選挙合戦ぽんぽこ!? 中橋徳五郎

中橋徳五郎 二行書

中橋徳五郎(1861-1934)は明治~昭和初期にかけて、官僚・実業家・政治家として多方面で活躍した人物です。

官界から実業界へ―関西実業界の首領―

帝国大学を卒業後、農商務省や逓信省などに勤務し、37歳で鉄道行政トップである逓信省鉄道局長に就任するなど官僚としても優秀であったらしく、将来が嘱望されていました。
そんな順風満帆な中橋に訪れた転機が、岳父が経営していた大阪商船会社への就職でした。

大阪商船(現 商船三井株式会社)は、明治から昭和にかけて存在した、関西を拠点とする海運会社です。
明治維新以降、日本各地で海運会社が乱立し、値下げ競争が激化するなど深刻な問題となっていました。
そこで、政府斡旋のもと、各社の合併が進められます。

大河ドラマ「青天を衝け」では、渋沢栄一率いる共同運輸会社と岩崎弥太郎率いる郵便汽船三菱会社による激しい海運競争と、共倒れになる寸前まで追い込まれていく様子が描かれていました。
最終的には両者は対抗するのではなく手を結ぶこととし、日本最大の海運会社・日本郵船株式会社が誕生します。

大阪商船もまた関西に乱立した各海運会社を紛糾の末に合併して、明治17年(1884)に成立しました。
日清戦争を契機に躍進しましたが、戦後不況の煽りを受け一転経営難に陥いってしまいます。
また、近代に入ったとはいえ、この頃の大阪商船では裃を着た番頭たちによる近世以来の経営方針がとられていました。
そこで、当時の社長・田中市兵衛は経営刷新を画策します。
この時、白羽の矢が立ったのが、婿養子であった中橋徳五郎でした。
田中はなんと中橋をいきなり社長に抜擢し、経営方針の転換など一切合切を中橋に委ねることにします。

中橋は早速旧態依然とした会社経営を刷新すべく、官僚時代に培った経験と人材を登用して運営方針を一新します。
旧経営陣からの反発も大きかったようですが、中橋は辣腕を振るい続け、僅か3年で大阪商船を建て直すことに成功します。

中橋が大阪商船に連れてきた人材の中には、同じく金沢出身の実業家として著名な山岡順太郎がおり、また同時期に大阪の実業界にいた堀啓次郎(金沢出身)を採用し、中橋の両腕として八面六臂の活躍をみせていきます。
彼らよりも一世代下で、後に宇治川電気(現 関西電力)会長を務めた林安繁(金沢出身)も大阪商船に入社し、メキメキと頭角を現していった実業家です。
このように、大阪商船には多数の金沢出身者がおり、金沢人の関西財界新出を支えていきました。

この他にも優秀な人材が集まるようになり、宇治川電気株式会社・大阪鉄工所・大阪ビルヂングはじめ数多の企業の創設及び重役を商船社員たちが担っていくこととなります。

数多の人材を有し、関西財界に多大な影響力をもった大阪商船は「人材の苗床」と称され、中橋を筆頭とする大阪商船系列・関係者は「大阪商船閥」と称されました。

実業界から政界へ―大選挙戦―

関西実業界では知らぬ者なしとなった中橋でしたが、その夢は再び中央に戻り、国政に参画することでした。
時は大正、藩閥政治から政党政治へと移り変わるタイミングで、中橋も政治の世界へ飛び込んでいきます。
大阪市議・議長を経て衆議院に立候補し、原敬率いる政友会から出馬することとなりました。

大隈率いる憲政党が推す「北陸の鉱山王」横山章(隆興長男)と、石川県を二つに割る大激戦を繰り広げ、破れてしまいます。
しかし、投票用紙が規格外だと選挙無効を訴え(!)、翌年のやり直し選挙で初当選を果たしました。
さらにその翌年には永井柳太郎との大接戦を制して再選するなど、記憶に残る大選挙戦を再び展開しました。

これら選挙の結果、初の政党内閣である原敬内閣が誕生しました。
中橋も入閣することとなります。
中橋は、鉄道局長を務めた経験もありますので、当然逓信大臣がお望み…でしたが、原が中橋を据えたのは文部大臣でした。

…なんで?

鉄道局長経験者で関西実業界出身、ともっと他に適当な役職がありそうなのですが、何故一番縁の遠い文部大臣…?
と、中橋本人も当惑。
どうも人選の調整関係でとのことでしたが、原としては文部大臣を中橋に任せる大きな理由がありました。
それは、「教育機構改革」。

実は、中橋自らが選挙で提唱していた「教育機構改革」は、政友会の公約のひとつにもなっていました。
原としては「良い政策だな。言い出しっぺのお前がやれ。」ということ。

こういわれてはむむむと思いつつもやらざるを得ません。
古巣の山岡たちに泣きついたところ、「こっちでブレーンは用意するから、なっちまったもんはちゃんと務めませ」と叱咤激励を受けたとか。

ということで、同郷の北條時敬や山本良吉ら教育関係者からは「教育のこと何も分かっとらん!」と批判を受けながらも、教育機構改革を大臣として実行します。
この改革で帝国大学以外にも公立私立大学の設置・昇格が可能となりました。
また、高等学校10校、専門学校29校、医学専門学校5校を設置するなど高等教育機関の充実、この他女子教育・実業教育の拡充や教員の優遇など、各種教育制度の改革に力を注ぎました。

専門外の分野ながらなんとかかんとか行ったこの政策は、政治家・中橋の中でもとりわけ大きな実績となっていきます。

その後の原敬暗殺の後も内務大臣などを歴任していきますが、ついぞ首相の座に就くことはありませんでした。
中橋は裏表がない人物で割とせっかちな所があるらしく、良い操縦者であった原の死後は、政治の世界であまり大成できなかったと林安繁は語っています。
もし原敬が生きていたら、もしかすると石川県初の首相は中橋だったのやも…?


中橋徳五郎 二行書

前期展では木村栄宛書簡のほか、中橋の書を二幅展示していました。
見比べてみると、トップに掲載した方は「芳草閣主人」、こちらは「狸庵」と名前のところに書いてあります。

いずれも中橋の雅号ですが、何故このような長ったらしい号やたぬきに…?

「芳草閣主人」というのは、中橋の大阪の住居(洋館)に国府犀東が「芳草閣」と名付けたことから名乗っていたようです。
しかし、中橋本人も「長ったらしいな…」と思って新たに名乗ったのが「狸庵」。

なんで…?政治家だから…?
中橋が腹芸が苦手だったことは先程触れたとおりで特に関係はありません。
発端は、奥さんが買ってきた狸の置物でした。

家に飾られた狸の置物を見ていて中橋もなんとなく旅先狸の置物を買ってくるようになると、子どもたちも狸の置物を…と段々家に狸の置物が増えていきました。
そうすると、新聞で「中橋は狸道楽をしてやがる」といった悪評?を書かれ、それをみた来客がまた狸の置物……と無限ループに。
結果、中橋邸宅は狸の置物が所狭しと鎮座するようになり、しまいには友人から「狸庵先生」というあだ名までつけられてしまう始末。
「もうじゃあそれで」というノリで自ら「狸庵」と名乗ったそうです。

ということで、家中狸まみれの家に住んでいたことが、この「狸庵」の由来でした。
たまに生きた狸を持ってくる客もいたみたいですが、「臭すぎるから勘弁」と断っていたようです。
あわれ狸…

ということで、前期展ラストは中橋徳五郎について紹介しました。
次回は現在開催中の後期展について!