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④平和の祭典(その5)

平沢「その時がついに来ました。五輪の紋章に表された、“第五の大陸大陸”にオリンピックを導くべきではないでしょうか。
“アジア”に。」
――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より

昭和34年(1959)5月、まーちゃん達が平沢和重(星野源さん)に最終スピーチを担当して貰おうと1話かけて口説いている頃、大島もまたまーちゃんの頼みで招致成功に向けてロビー活動を展開していました。

大島がまーちゃんから頼まれた使命とは、東欧諸国の票固めでした。
東欧―それは当時東側諸国と呼ばれたソ連とその傘下の国々を主とした東ヨーロッパ地域。
具体的には、ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィアの7か国の委員がIOC総会でのオリンピック開催地選挙の投票権を持っていました。

当時開催地候補として最大のライバルと目されていたのは、アメリカのデトロイトとオーストリアのウィーン。
東京は唯一のアジア圏立候補地ということもあり有力視されていましたが、東欧諸国の票如何ではどう転ぶか分からない―何せ、ソ連が”デトロイト”と決めれば、ユーゴを除く5か国はそれに従うだろうと目されていました。

ソ連は2票持っていますので、8票中7票がまとめて動く可能性があるというのは相当な懸念材料。

まーちゃんとしては動向の掴めない東欧諸国が不気味でした。彼らを何とか東京支持にして懸念材料を減らしたい…。そんな大役を果たせるのは誰か。
まーちゃんは、欧州スポーツ界に顔の広い大島に“東欧口説き”を直談判することにします。

しかし、当時のまーちゃんと大島はバチバチにやりあっていた仲。
特に“蚊帳の釣り手論争”(選手育成やスポーツ振興の方策の相違)では激しくぶつかり合ったらしく、まーちゃんは大島に道であってもそっぽを向いたという子どもみたいなエピソードも。

それでも、東京オリンピックを開催したいというまーちゃんの思いは、その対立感情すらも乗り越えて大島に協力を求めることを決意しました。

大島もまたまーちゃんと同じ気持ち。

東京招致運動が本格化してきた一九五九年春、田畑氏からぼくにモスクワを始め東欧のIOC八票を獲得するため飛んでくれないか、と要請があった。戦前の“鰻香オリンピック”の苦い思い出があったせいだろう。『もう一度日本で』の思慕がいつもぼくの心の底にあった。一方、子どもたちにどうしてもオリンピックの姿を見せたいという願いもあって、田畑氏との論争を離れて要請を受けることにした。
――大島鎌吉「1億人の証言」p227

東京にもう一度オリンピックを―

方向性は違えど、オリンピックを、スポーツを愛したふたりの“頭脳”が、夢に向かって握手を交わした瞬間でした。

ブラリ東欧訪問の旅

4月、大島は約一ヶ月に及ぶ東欧訪問を開始します。
この旅の道程は、『Tokyo Olympic 東欧訪問誌』(関西大学蔵)に事細かに記されています。各国の委員としたやり取りも。

まずはじめに、古巣ともいえるドイツに立ち寄って、旧友のスポーツ関係者からアドバイスを受けています。その内容は、
・日本でオリンピックを開催することの意義とオリンピックの理想(アジアでの初開催)を強く主張すべきだということ。
・“日本的な礼儀正しさ”ではなく、礼儀正しく、かつ強引にお願いすべき、という交渉アドバイスも受け取っています。

つまり、日本人が美徳とする謙虚さよりも、「アジアで初開催すべきだよね!絶対入れてくれよな!」という攻め重視の作戦が勝利のカギだと教えられます。
大島はこのアドバイスを胸に、ハンガリー→チェコスロヴァキア→ポーランド→ソ連→ルーマニア→ブルガリア→ユーゴスラヴィアの順に東欧諸国のIOC委員との面談を開始します。

この時、各国大使館に頼みこんで東欧7か国分のビザを1週間で発行してもらうという離れ業を成し遂げています(本人曰く「世界新記録を樹立」)。

最初のハンガリーでは、①東京に投票することを決定している、②日本とハンガリーのスポーツ親善を進めていきたい、と好意的な評価をもらいます。

次のチェコスロヴァキアでは、①東京で決めている、②距離的問題をどうにか解決してほしい、③ユーゴは不明だが残りは党議会で東京と決めた、という回答がありました。
さらに、委員からこんな垂れ込みも。
「広報不足のデトロイトからは、IOC委員に車を贈呈すると提案が。ウィーンも云々…。」

ポーランドは、日ソ間に臨時航空路を開いて移動時間を短縮することを条件に東京支持を表明。

続いてソ連のIOC委員と会談。ソ連も“アジア初開催”のため東京支持を表明します。あとは、東西冷戦の空気を持ち込まないようお互い連携していくことを確認しました。
大島が、「ソ連の票が東京の投じられることを確信している」と伝えると、ソ連の委員たちは“ニヤニヤ”していたといいます。
ソ連では練習の様子なども見学し、東側のスポーツ事情を視察します。

ルーマニアもアジアでの開催のため東京支持を表明。(あとアメリカ嫌い!という感情も)

ブルガリアと、動向の最も読めなかったユーゴスラヴィアも東京支持であることを確認します。

こうして東欧7ヶ国を訪問し、東側諸国の東京支持を取り付けた大島は急ぎまーちゃんに報告。まーちゃんは帰国した大島の手を握り何度も感謝の言葉を述べたといいます。

この訪問の結果、開催地投票では東欧諸国の8票中7票を獲得することに成功。
東京は対抗馬のデトロイトやウィーンに大差をつけて圧勝することができました。

が、
大島は東欧票が満票でなかったことを「裏切られた!」と憤っています。
夜の懇親会の際、ジャーナリストの嗅覚を研ぎ澄ませながら各委員と話をして、その口ぶりと態度、目線などから犯人捜しをはじめます(怖い)。
どうやらソ連は2票とも、またユーゴスラヴィアも日本に入れたようですが、その他の国の委員が別に入れた様子。
最初は裏切られたことに対する怒りが強かった大島でしたが、東側のボスであるソ連が東京に投票したにも拘らずボスの意向に背いた委員がいる―
その事実に対し、「スポーツの世界においては、東側諸国にもまだ自由意志が根付いているということ」と前向きに振り返っています。

実際の日本側がどのような招致作戦を裏で展開していたかは分かりませんが、当時のIOC委員たちは“アジアでの初開催”という理想を重視し、東西諸国が団結した結果、1964年東京オリンピックが実現したのでした。

大島が東京招致の切り札として“アジアでの初開催”を決まり文句にしていたように、スピーチを頼まれた平沢もまたアジア―東京での開催の意義に焦点を絞ってアピールしていきます。
45分の持ち時間のうち、対抗馬デトロイトが制限時間を大幅に超えたのとは対照的に、15分で簡潔にまとめ上げることでアジア開催の意義を強く印象付けました。
特に、切り札としたのが、小学校の教科書

平沢「ここに、日本の小学校六年生の教科書があります。『五輪の旗』という話が、載せられています。それは、このような記述で始まります。」
 オリンピックオリンピック。
 こう聞いただけでも、わたしたちの心は躍ります。
 全世界から、スポーツの選手が、それぞれの国旗をかざして、集まるのです。すべての選手が、同じ規則に従い、同じ条件のもとに力を競うのです。
 遠く離れた国の人々が、勝利を争いながら、仲良く親しみ合うのです。
 オリンピックこそが、まことに世界最大の平和の祭典ということができるでしょう。
「その時がついに来ました。五輪の紋章に表された、“第五の大陸大陸”にオリンピックを導くべきではないでしょうか。
“アジア”に。」
――第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」より

平沢が使った小学生の教科書に載った『五輪の旗』。
上の始まりから、近代オリンピックの始祖クーベルタンの生涯へとつながっていきます。
そこには大島が切望してやまないオリンピックの理想の姿が描き出されています。

実は、大島は昭和26年(1951)に『オリンピック物語』という、子どもたちに向けたオリンピックを紹介する本を出版しています。
そこでは、オリンピックのはじまりとクーベルタンの生涯を語り、オリンピックが平和の祭典と呼ばれる理由を解き明かしています。

大島が『五輪の旗』の執筆に携わっていたかは不明ですが、大島が子どもたちに伝えたかった思いは『五輪の旗』の中にしっかりと刻まれていました。

戦争を知らない戦後生まれの子どもたちに、平和の祭典を見せてあげたい―
大島の蒔いた種はようやく萌芽しはじめました。

こうしてオリンピック東京大会組織委員会が設立され、大島も委員に選出されます。
この時、事務総長兼選手強化対策本部長に就任したまーちゃんから「お前暇そうだしやってくれ」と言われて選手強化対策本部副本部長に就任。

ここから、“東京オリンピックをつくった男”と呼ばれる大島の東京オリンピック伝説がはじまります。

…さて、ようやく、ようやく……

大島初登場回(第41回)の直前まできたじゃんね~~~~~!!!

会期中になんとか→年内になんとか→年度内に(略)とどんどん伸びていってますが、遂に終わりが見えてまいりました…。

ということで、ここまで『いだてん』本編の裏で行われていた出来事を紹介してきましたが、いよいよ次回から本編の描写とシンクロさせながら大島の活動をみていきたいと思います。

本年もよろしくお願いいたします。

参考資料・文献
大島鎌吉『オリンピック物語』(あかね書房、1951年)
    「オリンピック東京決定の舞台裏」(『新体育』29(10)、1959年)
    「一億人の証言 金メダル 15 個を宣言」(『昭和スポーツ史 オリンピック80年』毎日新聞社、1978年)
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)
伴義孝『大島鎌吉というスポーツ思想―脱近代化の身体文化論―』(関西大学出版部、2013年)