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館蔵品展【後期】の見どころ紹介②ー日置謙編ー

館蔵品展【後期】も一月前に終わり、後期展示も始まってまもなく2週間…
ということはさておき、前回お伝えした通り、後期展唯一の非常設メンバーである日置謙(へき けん)について紹介していきます!

石川県の歴史をつくった男 

日置家伝来の古文書(江戸時代は渡邊姓を名乗っていた)

「石川県の歴史をつくった」とはまた大仰な、と思うかもしれませんが、あながち誇張でもございません。
その理由は後で説明するとして、まずは日置謙の簡単な略歴を紹介します。

一中の名物教師

日置謙(1873~1947)は金沢出身の郷土史家で、数多くの偉人を輩出した第四高等中学校(通称:四高)の卒業生です。
当時四高らナンバースクールは入学してしまえば卒業後自動的に帝国大学に進学することができました。
いわば大学進学の育成機構だったわけです。

木村栄や藤岡作太郎、谷口吉郎、八田與一など四高を卒業して帝大に進み、その後偉人として羽ばたいていく人物が多いのですが、日置は四高卒業後は帝国大学に進まず、四高の舎監として生計を立てていきます。

その後は教師となって熊本、福井、岩手など全国各地で教鞭をとったのち、明治38年(1905)に金沢第一中学校(現 金沢泉丘高等学校)の社会科教師となって帰郷しました。
歴史民俗学に精通した日置は一中の名物教師として有名になり、20年以上にわたり一中生を育てました。
下記は後年、一中が日置の長年の勤務に対する謝意を表し、日置に贈呈された感謝状です。

金沢第一中学校から日置謙に送られた感謝状

実は、日置謙が「石川県の歴史をつくった男」と題される業績は、一中を退職後に行われました。

郷土史の三傑

石川県では近世~近代にかけて郷土史研究に尽くした人々が数多く存在し、その中でも「三傑」と呼ばれる人々がいます。

『越登賀三州志』の著者・富田景周(1746-1828)

『金沢古蹟志』などを著した森田柿園(1823-1908)

そして、日置謙

富田景周は加賀藩士で藩史研究に尽力し、当時加賀藩領だった加賀・能登・越中の歴史書を多数残しました。
森田柿園は加賀藩士で明治維新後、加賀藩の書籍を保管・研究に注力し、膨大な藩資料の散逸を防ぎました。
彼ら先人たちの努力によって、石川県には加賀藩以来の厖大な歴史資料が多数残されていました。
そして、彼らの業績を「集大成させた」と評されるのが日置謙です。

日置が「集大成させた」とはどういうことか?というと、

歴史の著述に近代史学的手法を用いた

ということです。

つまり…どういうことだってばよ…?

ざっくりというと、江戸時代~明治初期の頃の歴史書とは、現在からみるとカオスな内容でした。
どこどこで幽霊が出た~とか、ここは大蛇を退治してできた湖であり~とか、伝承と歴史的事象が混在して記録されていました。
日置はこうした伝承(民俗学)と史実(歴史学)を分けて考えるべきとし、歴史資料に基づいた歴史学―現在も用いられている実証史学を実践していきます。
金沢でいうならば、地名の由来となったとされる「芋堀藤五郎」伝説を「史実ではない」とバッサリ。

日置のこうした姿勢は四高卒業後に著した処女作『前田世系』以来一貫していました。

教師をする傍ら郷土史研究を行い、執筆を続けていた日置の人生の大きな転換となったのが、『石川県史』の編纂でした。

今でも地方自治体史は刊行されていますが、この場合は編纂委員会を立ち上げ、複数の執筆者によって作り上げていきます。
ところが、日置が依頼された当時、自治体史は一人の郷土史家によって執筆されることが一般的でした。

『石川県史』編纂に専念するため職を辞し、7年の歳月をかけて全五篇(戦国以前・藩治時代上・下・明治時代・風土志)からなる石川県史を完成させました。

そして、この事業で注目したいのが、この大著は【石川県】という枠組みとなって初めての歴史書であったということです。

富田の頃は加賀藩領のため、越中(富山県)も含まれていました。
そして森田の頃も含め、伝承と史実が入り混じった歴史書でした。

日置は加賀・能登の資料をかき集め、史資料に基づいた歴史を編纂し、近代石川県の歴史書を完成させました。
今までとは全く異なる価値観・視点を多分に含み、近代にできた新たな枠組みである【石川県】の歴史を作り上げていった―といえるのではないでしょうか。

このようにみていくと、「石川県の歴史をつくった男」という評価もまったくのデタラメではないことが分かります。

その後も前田侯爵家の依頼で『加賀藩史料』を編纂する傍ら、石川県立図書館長の中田邦造や玉井敬泉らと協力して郷土史書の刊行に尽力しました。
晩年には郷土史研究のバイブルとされる『加能郷土辞彙』など辞書、史料集、年表を刊行し、後世の研究に貢献しています。

なお、史料的裏付けがない記述は「抹殺否定する」という徹底した姿勢から、日置自身も後年「抹殺病にかかってしまったよ」と苦笑していたといいます。

「抹殺病」…怖すぎる…。

日置謙の著書については、現在は新たな研究の進展によってその内容が否定されている部分も少なくありません。
ただ、歴史学というものは先人の業績を批判継承していくことで、より深化させていくものですので、日置の研究が否定された=業績否定につながるという単純なものでもありません。

富田や森田同様、次の世代がまた新たな歴史像を切り開いていくための足場を作ったことで、若き研究者たちが日置ら先人の業績を精査し、その誤りを見つけ出すことが出来ているのです。
このことは、末永く顕彰されていくべき功績といえます。

ということで、郷土史家・日置謙についての紹介でした。

次回からは後期展「福祉は金沢(ここ)から始まった!―陽風園と善隣館―」について見どころを紹介していきます!