![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/78732219/rectangle_large_type_2_34f10b80bd64bec77ac002056b7b95ad.jpeg?width=1200)
八田與一の通学路を歩く
先日5月8日は、八田與一の命日でした。
八田與一は昭和17年(1942)5月8日、客船「大洋丸」でフィリピンに向かう途中、アメリカの潜水艦の攻撃を受けて殉職します。今年は没後80年の節目となります。
例年この日は台湾にて八田與一慰霊祭が執り行われ、日本からも関係者が参列していたのですが、ここ数年のコロナ禍により渡航は控え、今年は金沢ふるさと偉人館の庭にある八田與一胸像の前で慰霊祭が執り行われました。
慰霊祭は午後3時からだったのですが、午前中何をしていたのかというと、
「八田與一が一中時代に通っていた通学路を歩こう」
というご遺族の発案から、弾丸ウォーキングを敢行しておりました。
今回の雑報は、與一の生家~一中跡地まで約10kmの道程を、偉人館のTwitter上で実況しておりましたので、補足も踏まえながらまとめておこうというものです。
今町界隈の與一関連
金沢市今町にある八田與一の生家の周辺には、與一に関連する史跡や像などが複数あります。
八幡神社
今町の八幡神社には「台湾 八田與一」の名が彫られた灯篭があります(写真奥の大きめの灯篭)。
![](https://assets.st-note.com/img/1652767452466-AnsuOd929z.jpg?width=1200)
この灯篭が奉納されたのは昭和18年(1943)5月であり、與一の没後となります。ん?となりますが、由緒によると、昭和15年(1940)の皇紀2600年記念にあわせて神社の改修が行われたとあり、おそらくこの時点で與一が灯篭建立の費用を出資していたと考えられます。
表側には「願祈勝戰」の文字が大きく掘ってあり、当時の世相を反映しています。
花園小学校
八幡神社から生家に向けて歩いていくと、花園小学校が見えきます。
敷地内には八田與一胸像が設置されています。また校舎内に「花園偉人館」という一室が設けられ、八田與一の写真や関連図書などが展示されています。
小学校の道路を挟んで向かい側には「與一の道」という花園小学校の子どもたちが命名した碑(サムネイル)があるなど、”與一づくし”な空間です。
八田與一生家
そしていよいよ生家に到着。
国の登録文化財にも登録されているこの建物、見た目は勿論のこと屋内も庭もまー凄い!
邸宅の前には生誕地碑と顕彰碑が立てられ、誰でも見ることが可能です。
![](https://assets.st-note.com/img/1652768902140-9TUNGVkqoX.jpg?width=1200)
北國新聞さんの9日夕刊に、筆者(眼鏡の若造)がやらせポーズ(※)をとっている写真がでかでかと載っていましたが、アレはここで撮った写真です。
※一緒に写っている方々は私以外與一遺族や関係者ばかりなので、釈迦に説法みたいな構図になっております
出発
9時前に今町に到着したものの、色々回っていた結果出発したのが9時40分と、当初より40分もスタートが遅れましたが、いよいよ生家前をスタートしました。
ゴールは一中こと県立金沢第一中学校(現・県立泉ヶ丘高等学校)跡。当時の一中は本多町の旧県立図書館辺りにありましたので、大体偉人館まで歩いていく感覚です。
現在の金沢市今町は、昭和37年(1962)に金沢市に合併される以前は森本町、それ以前は河北郡花園村であり、金沢市外の地域でした。
與一はここから10kmの道のりを歩いて通学していたといいます。
では、ここからは実況tweetで、生家~今町までの通学路をみていきましょう。
おはようございます!
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
本日は八田與一の命日ということで、「八田與一の通学路を歩く」をご遺族の方々と通学路(約10キロ)を移動中です🚶
八田與一の生家から一中跡まで、実況していきます✋ pic.twitter.com/UgJRfRhAmj
花園小学校の生徒さんが名付けた與一の道の看板を発見
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
風が凄いですが、昔は建物も少なかったから、もっと凄かったはず… pic.twitter.com/wZRYc6dgAA
北國街道の松並木
現在歩いている道は北國街道にあたり、こちらの松は藩政期以来のもの
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
與一もこの松並木を眺めながら通学していたとみられます pic.twitter.com/tquSyNSUkr
街道沿いはお屋敷のような家が立ち並んでおり、圧巻でございました。
森本駅
森本駅まで到着
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
與一も時には汽車を使って金沢まで出ていたかも? pic.twitter.com/vAH0D59FsY
森本駅の開業は明治44年(1911)。
與一が一中(&四高)に通っていたのは明治32年(1899)から40年(1907)の間。
…しまった!!!まだ出来とらんがいや!!!!
と気づいたのは数日後でした(後のまつり)。
きちんと調べもせずに呟くものじゃないですね…。
さて、ここまで約3キロ地点(トイレ休憩5分)。「八田與一の通学路を歩く」イベントがあるときは、ここまでで終了することもあるとか。もちろん我々は後7キロ歩きます。
百坂の旧道
百坂で北國街道は旧道と新道に分かれます
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
左が旧道 pic.twitter.com/ujo1UKaCIR
この旧道は小坂町中の交差点で再び新道(城北大通り)に合流します。
大樋の旧道
二度目の旧北國街道に突入
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
小坂で合流して大樋で再び分かれます
しかし、思ったより肌寒い… pic.twitter.com/ujjMq1863M
下口の松門跡
城下町と郡方の境界線「下口の松門跡」
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
ここから城下町です https://t.co/HxgPOhEJo7 pic.twitter.com/1n7iXRSxWc
與一の通学路は、実のところ加賀藩の参勤交代の経路とも被っています。
浅野川界隈
東山まで到着
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
当時繁華街として栄えた橋場町界隈で與一も楽しんだこともあったやもしれません pic.twitter.com/BEld9apaZr
美味しそうなスイーツに目を惹かれますが、今は仕事中と自己に言い聞かせてそさくさと浅野川大橋を渡ります。
お堀通り
お堀通りはその名の通りかつては堀でしたが、明治に入って埋め立てられ、現在の形に
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
いよいよ一中が見えてきました! pic.twitter.com/z6tJBlXOWG
写真の道はかつて「百間堀」という巨大な堀がありました。
明治に入って「交通の邪魔」という理由で埋め立てられ、現在のような道路となりますが、埋め立てが竣工したのは明治44年(1911)のこと。
なお、與一が一中(&四高)に通っていたのは明治32年(1899)から40年(1907)の間。
…しまった!!!まだ出来とらんがいや!!!!(2回目)
「確かもう埋め立てとったはず」と当たり前のようにお堀通りを歩いていましたが、当時まだ水の張っていた堀の上を與一が歩くわきゃないです。
反省反省…。
與一がどんなルートで一中まで通学したかは今後の課題です。
一中跡地
一中跡地に到着!
— 金沢ふるさと偉人館(IJINKAN)@「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」開催中 (@IJINKAN5) May 8, 2022
途中休憩を挟みながら2時間15分の旅でした pic.twitter.com/ZIE2tN7pk2
一中の敷地は旧県立図書館や社会福祉会館、本田通り、歌劇座周辺でした。
美術の小径には同校創立80周年を記念して建立された桜章校跡地の碑があります。
ということで與一の通学路ウォーキングは午前中で終了し、一瞬の魂抜け殻時間を挟んで午後の慰霊祭に参列しました。
歩きながら何かネタはないかと探していたのですが、建物は殆ど当時と変わっている一方、與一が通っていた―もっといえば参勤交代の頃から変わらずそこに立っている木々が印象的でした。
実際に歩いてみるといろんな偉人の通学ルートを歩いてみたくなりますね(企画するとは言わず)。