2.高峰譲吉と三共(前編)
今回は高峰譲吉と第一三共株式会社の関係について紹介していきます。
現在、第一三共の歴史展示室には三名の人物が展示されています。
ビタミン学の祖として知られ三共株式会社学術顧問であった鈴木梅太郎
梅毒治療剤アーセミンを創製し第一製薬株式会社顧問を務めた慶松勝左衛門
三共株式会社初代社長を務めた高峰譲吉
そう、実は第一三共株式会社の前進である三共株式会社の初代社長は高峰譲吉だったのです。
ただし、創業者は別。
ん?
初代社長なのに、創業者は別?
どういうことかというと、この歴史展示室に密かに展示されている胸像の人物―その名は塩原又策(1877-1955)。
彼こそ、三共の創業者にして高峰譲吉の右腕だった人物です。
明治35 年(1902)に一時帰国した譲吉を出迎え、そこでタカジアスターゼの国内独占販売権の交渉に成功し、三共ブランドとして確立させました。その後もアドレナリン、パーク・デイビス社製品の国内販売を一手に担いながら、三共を一大製薬会社に成長させた敏腕の実業家です。
大正2 年(1913) に三共株式会社に改組の際、譲吉を初代社長に迎えることで、その関係を強固なものとします。
このように、実業家として譲吉と深い関係にあった又策ですが、実は彼も中々の「Try, Try Again!」の精神の持ち主。
譲吉と出会うまでのいきさつをみていきましょう。
夢見る青年実業家 取り柄は情熱
神奈川県に生まれた又策は、父とその友人が経営していた絹物会社に就職し、支配人として経営をしていましたが、生糸相場の変動のあおりをうけ倒産してしまいます。
そこで友人で商人の西村庄太郎が米国へ出張に向かう際、「日本で商売や事業になりそうなものがあったら教えて!」とお願いしたところ、帰国した西村が持って帰ってきたのはタカジアスターゼの国内販売権でした。
いや、どういうことなの…
塩原の回想によると、
渡米した西村がシカゴの日本領事での歓待の際、満腹のところにタカジアスターゼが振舞われて胃の調子がとても良くなった。日本人の高峰譲吉博士が最近発明した薬と紹介されたので、早速会いに行って譲吉に又策の事を紹介して彼に日本国内での販売を任せてほしいとお願いしたところ、譲吉も快諾して話がまとまった
という経緯だそうで。
話がトントン拍子過ぎる…
しかもこの時の又策は、医薬品の販売取り扱い経験0(ゼロ)。
まったくの素人でした。
とにもかくにもタカジアスターゼの国内販売を担えることになった又策は、西村や友人の福井源次郎に話を持ち掛け、三人が千円ずつ出資する形で合資会社三共商店を設立します。
そう、「三共」とは塩原又策、西村庄太郎、福井源次郎の三者が共同で起こした会社という意味でした。
ところが程なくして西村も福井も「経営は君に任せる」と資本をそのまま譲渡し、結局又策ひとりで経営していくことになります。
しょうがないので三共商店は当初絹物販売を行いつつ、夜な夜な瓶に粉末を詰め瓶に粉末を詰め…と店長自ら手作業で準備を進めていきました。
…ここまでの経歴だけみていると
ようやろうと思ったなあ…!?
と思わず叫んでしまいたくなる惨状です。
が、
譲吉は最終的に又策へ国内販売独占権を委ねるわけです。
一体彼のどこに惹かれたのか…は、譲吉本人しか分かりませんが、西村から名前だけ聞いていた譲吉がはじめて又策と面会したのは、明治35年の一時帰国の時でした。
又策に国内販売を任せてからおよそ3年―薬販売についてはド素人だった又策でしたが、持ち前の情熱を行動力を生かしてタカジアスターゼの売り込みを進め、国内でのタカジアスターゼの知名度は高まっていく一方でした。
彼のそんな情熱に感じるところがあったのか、数日のうちに「兄弟盃を交わす」関係になったこということで、譲吉がこの青年実業家を高く評価していたことは間違いありません。
実は、譲吉自身も日本でのタカジアスターゼ販売についてはひとつのビジョンを持っていました。
それは、日本の企業による国内販売の実現。
アメリカではパークデイビス社を通して全米中にシェアを広げていましたが、日本では国内の企業がタカジアスターゼを販売出来るようになってほしい、というのが譲吉の願いでした。
そんな矢先に現れたのが、あまり業績もないけど評判はいい青年実業家の話でした。
譲吉としては、この青年実業家の情熱に、日本の未来を託してみたかったのかもしれません。
そして実際に、この青年実業家はやり手のビジネスマンとしてメキメキと頭角を現していくのでした。
次回は理化学研究所創設の契機にもなった第一次世界大戦下での三共が果たした役割について。
あの有名な発明家も登場します、お楽しみに!
(後編へつづく)