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⑤稀代の鳥類画家・小林重三 前篇

金沢ふるさと偉人館

会期終了まであと1週間を切りました。
大変ありがたいことに、昨日までの時点で本当に多くの方が全国から鳥の絵を見に来てくれております☺
おかげさまでグッズの売れ行きも上々…
 
それはさておき、前回からまた一か月以上も空いてしまい申し訳ございません…。
今回のテーマは、本企画展もう一人の主人公である小林重三について。
企画展では「稀代の鳥類画家」としての側面を簡単に触れているだけですので、小林が辿ってきた人生について掘り下げていきましょう。
 

小林重三の生い立ち 

明治20年(1887)、現在の福岡県小倉市で尾張藩士族・小林家の次男として生を受けます。
小林家は代々尾張藩の医師を務めた家系であり、重三が福岡生まれなのは、父・三敬が陸軍の軍医であった関係で各地を転々としていたからでした。
 
子どもの頃から絵が好きだったようで、画家としての片鱗をこの頃から見せていたといいます。重三は次男坊だったこともあり、父も画家の道に進むことに賛同していたとも。
 
しかし、重三が12歳の頃に三敬が亡くなると、小林家の財政状況は次第に悪化していきます。
水彩画の風景画家になるため美術学校入学を目指していた重三は地元の中学校のコンクールなどへ次々と応募し、受賞を重ねていたようですが、家計は厳しくなる一方で、遂に学校を退学しなければならなくなりました。
 
それでも画家になる夢を持ち続けた重三は、姉夫婦の支援を受けて義兄が働く試農場で写生画家として働き始めます。
写生画家をしながらなんとか生計を立てていた小林青年でしたが、明治39年(1906)人生の転機ともいえるとある人物との出会いを果たします。
 
その名は、木下藤次郎(1870-1911)。
 
重三にとって水彩画の師匠にあたります。
東京生まれの洋画家で、水彩画の手引書『水彩画之栞』の刊行や水彩画雑誌「みずゑ」を発行、絵画塾「水彩画研究所」を開業するなど、日本の水彩画黎明期を支えた人物です。
 
この「みずゑ」を定期購読していた重三は、大阪で木下が主催する水彩画講習会が行われるという広告を発見!
早速休みをとって、2週間あまりの講習会に参加した重三は、水彩画の技法について木下らから指導を受けます。
最終日の作品批評会では、木下から「一番よくできている」という評価をもらい、重三は終生そのことを誇りに思っていました。
 
その後も重三は前回の講習会での知り合いとともに膳所(滋賀県)での夏期講習を立案、木下を講師として東京から招聘し、また度々上京して水彩画研究所で修行を積むなど水彩画に対する情熱を滾らせていました。
 
こうして木下に師事しながら水彩画の勉強に励んでいた重三でしたが、木下から二つ目の人生の転機となる出会いを持ち掛けられます。
 
それこそが「鳥の絵」
 

駆け出しの鳥類画家

図鑑用の鳥の絵を描いてくれる画家を探してほしいという依頼を、鳥類学者・内田清之助から受けた木下。
数ある弟子の中で白羽の矢を立てたのが、重三でした。
 
ただ、重三本人は風景画家を目指していたこともあり、最初は乗り気ではなかったようです。

この話を受ければ“パトロン”がつくこと(この時既に二児の父)
東京に住める(=木下の指導を受けやすくなる)こと
などなどメリットもいくつかあったため、遂に決心してこの仕事を受けることにします。
 
とりあえず師匠の勧めだし…、ということで受けた「鳥の絵」の仕事―これがまさかライフワークになるとは本人も思ってなかったかもしれませんね。
 
明治44年(1911)、一家で東京に移り住んだ重三でしたが、この数か月後になんと師匠の木下が急逝してしまいます。上京早々に精神的支柱を失ってしまった形となりましたが、木下のもとで5年間水彩画のいろはを学んだことが、重三が「稀代の鳥類画家」たる所以となっていきます。
 
さて、木下のもとに依頼をよこしたのは内田でしたが、実際に画家を探していたのは、内田の大学の後輩にあたる松平頼孝(子爵、1876-19545)でした。
 
頼孝は内田や黒田、鷹司らと同じ東京帝国大学の飯島研究室の出身で、鳥の標本収集を趣味としていました。
その収集した資料を使って鳥類図鑑を作成したいと思い、誰か腕の良い画家はいないかと内田に相談。それを内田が木下に依頼して…と巡り巡って重三に声が掛かったのでした。
 
風景画家を目指していた重三にとって、うねうねと動く生き物の絵は相当難しかったらしく、いくら標本をみて描いてもどうにも躍動感が出ないことに思い悩んでいたようです。
 
雇い主の頼孝から「実際に動いている生き物を写生なさい」といったアドバイスを受け、上野動物園に通いながら生き物を写生し、また木下の本を読み返しながら必死に鳥の絵を描き続けていきます。
 
後に当代きっての鳥類画家として名を馳せた重三にも、こうした修業時代があったわけです。
 
こうしてひたすら鳥の絵を描き続けている重三のもとに、内田から図鑑の挿絵の依頼が舞い込んできました。
『日本鳥類図説』(警醒社、1914年)附図「第26図」は鳥類画家・小林重三にとって最初の仕事となりました。

※リンク先は国立国会図書館(図書館・個人送信資料利用可)となっています(84コマ目)。現在偉人館に展示してあるのが重三晩年の作品であるのに対し、こちらは若き駆け出しの重三の絵ですので、見比べてみるのも楽しいかも?

なお、後に第4版(1927)で増補が行われた際、

又図版第三、五、七、十五及、十七の五版は鳥類専門画家小林重三氏に煩して新たに原図を調整せり。

上巻「第四版の出版に際して」

本版ニ於テハ第三版発行以後今日迄ニ発見セラレタル種及亜種ノ記載並ニ其数種ノ挿絵(小林重三氏筆)ヲ増補シタリ。

続巻「続編第四版ノ出版ニ際シテ」

と追加の鳥の絵をすべて重三が担当しています(下巻は増補なし)。
特に注目したいのは、上巻で重三を「鳥類専門画家」と称していること。昭和の頭には鳥類画家として不動の地位を確立してきたことが分かります。
 
こうして様々な出会いと別れを繰り返し、また試行錯誤を重ねながら鳥類画家としての名声を手に入れていく若き日の重三。
松平家との関わりや悟堂との出会いについては…後編で!

…はい、近日中にアップします…

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