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秋聲と石川県専門学校

(※この記事は、旧雑報で2021年 6月16日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。)

一昨日6/14より1か月ぶりに企画展再開しました~!(※そして再び臨時休館へ2021/8/8追記)前回のつづき「石川県専門学校及び第四高等中学校時代の秋聲と仲間たち」について。特に石川県専門学校に焦点を当てましょう。

『光を追うて』では秋聲の学生時代の思い出のほか、同窓生の紹介や記述が数多く登場します。どんな人物たちが登場するかは、是非会場もしくは『光を追うて』でご確認いただきたいのですが、当館常設展の偉人達も多数登場します。

明治14年7月~21年3月(1881~88)まで存在した石川県専門学校は当時の石川県が独自に設置した7年生(初等中等科4年・本科3年)学校です。専門学校という名前ですが予備科・法学科・理学科・文学科をもった全国的にみても高いレベルで整備された県立学校でした。

当館の偉人の中では、藤井健次郎(1866年生)、木村栄、鈴木大拙、西田幾多郎、藤岡作太郎(以上70年生)、井上友一、山本良吉、徳田秋聲(71年生)、安宅弥吉、桐生悠々(73年生)がこの専門学校で学んでいます。

秋聲と弥吉が入学したのは明治19年(1885)、悠々は翌年、この年の10月から第四高等中学校が専門学校校舎を使用するため、彼らは最末期の世代に当たります。また、関口開と北条時敬が教師として偉人たちを指導していました。

その校風について、西田幾多郎は「悉く金沢の旧士族の子弟であり…(中略)…全体が一家族といふ様な温かみのある学校であった」と回想しています。

注目したいのは「悉く金沢の旧士族の子弟」だったということ。秋聲も悠々も戸籍上は「士族」です。没落気味だったとはいえ、まだまだ「百万石の武家」のプライドが残っていた時期ですので、金沢士族にとっては、身内で固めた「家族的」な環境は居心地がよかったのかもしれません(因みに西田は河北の豪農の家出身)。
この環境は第四高等中学校設置に伴い、一変します。

ちなみに秋聲は石川県専門学校を受験する際、「試験の日取りも忘れて」友人の家へ遊びにいって、そこで知らされて…という面白エピソードも(本人にとっては気が気じゃないですけれども)。
秋聲は「生まれついて軽率」と自虐していますが、自分も大学受験の時期に直前模試の日を失念して家でゴロゴロしてたりセンター当日にバスを乗り間違えたりしたので、この時の秋聲の気持ちが痛くわかります。

この受験日失念エピソードは『光を追うて』以外にも『中学世界』という雑誌でも披露されています。該当ページは企画展会場で読めますので、(再開館の際には)是非ご覧になってください!

次回は第四高等中学校についてみていきたいと思います。