渋沢栄一と高峰譲吉 出会いと別れ(下)
令和3年の内に上げるつもりが、もう新年始まって2週間以上経ってしまいました…。
新しい大河ドラマも始まってしまいましたが、引き続き栄一について見ていきましょう。
日米親善
日露戦争後、アメリカでは日本の移民問題も重なって排日論が高まっていきます。こうした中で、栄一が実業団の代表として大統領や各地方の政財界の有力者たちと交流している本編で様子が描かれていました。
そんな栄一の活動をアメリカでサポートしたのが譲吉…という話は以前紹介しましたが、譲吉はこの他にもアメリカにおける日本人の地位向上と日米友好のために様々な手を尽くしていきます。
その事例を、いくつか紹介していきましょう。
松楓殿の造営
譲吉は1904年セントルイス万博で使用した日本館のパビリオンを譲り受け、ニューヨークの郊外に和洋折衷建築の別荘として改築。社交の場として使用しました。
万博パビリオンが元ですので、日本の文化をアメリカの人々に発信するには持ってこいの建物(時代・様式はごちゃ混ぜのなんちゃってですが)。来賓たちはその絢爛豪華な見た目に圧倒されたといいます。
日本クラブの創設
1905年、日米の民間交流を目的としてニューヨークに日本倶楽部(現 日本クラブ)を設立し、その会長に就任します。個々人の会員のみだと自然消滅をしてしまう可能性を考慮し、企業法人レベルで結束し、組織力を強固なものとしました。
桜の木の贈呈
1912年、日米友好の証として日本からアメリカ(ワシントン・ニューヨーク)へ桜の木が贈られました。ワシントンのポトマック河畔の桜は東京市が、ニューヨークの桜は在住邦人会が代表して累計5000本以上の桜の木を贈呈され、現在も植樹された桜並木が両都市の河畔を彩っています(写真はニューヨークの「サクラパーク」)。
譲吉はこの活動を積極的に推進し、また多額の資金援助を行いました。こうした奮闘から、アメリカに贈呈された桜の木は“高峰桜”と命名され、子孫が故郷金沢に里帰りしてきています。
こうした活動の傍ら、栄一らとの連携もますます強めていきます。
大正4年(1915)、排日運動緩和策のため栄一は3度目の訪米をおこない、譲吉は各種歓迎会・晩餐会をセッティングしていきます。
譲吉が主催した晩餐会に所用で参加できなかったルーズベルト元大統領は、わざわざ別日に個人的な懇親会を企画し、高峰や栄一を自宅に招いています。一実業家でありながら、栄一や譲吉が日米関係において重要な立場にあったことが分かるエピソードです。
この時、栄一75歳、譲吉61歳。
はじめて出会ってから25年の月日が流れていました。
その2年後の大正4年(1917)、日本とアメリカの修好を深めるべく金子堅太郎、栄一、譲吉らが発起人となって、現在もつづく日米協会が発足します。
会長は金子、名誉副会長として栄一、譲吉らが名を連ねました。
タカジアスターゼとアドレナリンの発明後の譲吉は、このようにアメリカでの排日風潮の緩和に尽力を注ぎます。しかし、こうした努力と裏腹に排日運動はおさまることはありませんでした。
永遠の別れ
大正10年(1921)、栄一は4度目の訪米を果たします。
本編中でも描かれていた、ワシントン海軍軍縮会議に参加するためです。
この訪米の際、栄一は譲吉からつある相談を受けます。
「そろそろ日本に帰って余生を過ごしたい」
この時譲吉は66歳。心臓の痛みを訴えるようになっており、何かを悟っていたのかもしれません。
この譲吉の相談を受けた栄一は、譲吉の帰国に断固反対します。
……一方に於て大に骨を折られた日米関係は、まだ決してあなたの学問的事業の発展程には進んで居りませぬ、動もすると色色な紛議を生ずると云ふことは免れない有様である。年齢に於て私は十以上の長者であるけれども、此老躯を提げて、さうして罷出て心配するではないか、……望む所はもう十年亜米利加に留まられたいと希望する。私は死ぬ迄やる積りだ、其覚悟を以てすれば何でもないではないか
――渋沢栄一「追悼演説」『高峰博士』p201,202
「俺ァもう80過ぎだ。だがこうしてアメリカに来て日本とアメリカのために尽くしている。あんたはまだ俺よりも10以上も下だ、まだまだ若ぇじゃねえか。それに、学問での成功に比べりゃあ日米関係はまだまだ結果が出ちゃいねえ…あと10年はこっちで頑張ってほしい。」
栄一の説得を聞いた譲吉は、「確かに言う通りだ」と決意を新たに、病躯を押して栄一のサポートに奮闘します。
そして、これが栄一と譲吉との永久の別れとなりました。
栄一達が帰国後、譲吉は無理が祟ったのか入院することに。
そしてそのまま病状は悪化し、ベッドから起き上がれないほどに衰弱します。
そして、大正11年(1922)7月。
譲吉はニューヨークの病院で静かに息を引き取ります。享年67。
葬儀はニューヨークで行われ、11月に栄一が発起人となって追悼会が東京の帝国ホテルで開催されます。
出席遺族は妻のキャロラインと次男のエーベン・孝。
友人、政治家、実業家、各種業界人350人以上が参列しました。
このとき、追悼演説を担当したのは以下の四名です。
渋沢栄一(追悼会発起人総代):譲吉との思い出について
大河内正敏(理化学研究所所長):理化学発展への功績について
阪谷芳郎(帝国発明協会会長):その多岐にわたる功績について
金子堅太郎(日米協会会長):日米親善への尽力について
栄一の娘婿である阪谷芳郎が譲吉を評した言葉を紹介しましょう。
世界的に日本人として、其移住して居られた所の国民に深く愛せられ、其移住した国民に向かって大なる発明を与へ、而して其移住した国民間に於ても相当なる富を成して、所謂無冠の大使として日米間の親善にこれだけ貢献した、是だけの歴史を有する学者が外にありますか、政治家がありますか、軍人がありますか
――阪谷芳郎「追悼演説」『高峰博士』p209,210
この追悼演説の中で、「日米関係の要がいなくなってしまった」そしてまた「代わりになる人などいない…」と皆その死を深く惜しんでいます。
彼らの危惧通り、譲吉の没後日米関係は栄一達の努力も空しく悪化の一途をたどり、20年後、太平洋戦争へとつながっていきます(諸行無常…)。
譲吉が亡くなった9年後の昭和6年(1931)、栄一は91歳で永眠します。
ふたりの天才が後半生をかけて尽力した日米親善は残念ながら悲しい結末を迎えることとなりますが、彼らが残した日米協会やニューヨークのサクラパークは、今なお日米の懸け橋として息づいています。
譲吉はワシントンのウッドローンセレモニーに眠っており、墓前には
“近代バイオテクノロジーの父(Father of Modern Biotechnology.)”
と紹介されています。
さて、ここまで「青天を衝け」本編では描かれなかった渋沢栄一と高峰譲吉の奮闘記をみてきました。
この他にも理化学研究所の創設や北陸アルミ産業など、彼らが協力して残した業績が多々あります。
この二人のエピソードだけでも面白いドラマが作れそうですね!
そして、今年令和4年(2022)は、高峰譲吉の没後100年。
水面下で色々動いてますのでこうご期待!(※過度な期待はご遠慮下さい)
引用・参考文献
塩原又策編『高峰博士』(大空社、1998年)初版1926年
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』渋沢栄一記念財団、2016年
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?cmd=sbsw_search(2022/1/14)
このシリーズ、高峰譲吉編はこれでおしまいですが、まだ何名か栄一と関係のある偉人たちがおりますので、今後もまったりと紹介していきたいと思います。