4.塩原又策のみた高峰譲吉
譲吉と又策の出会いや三共での協力については既にみてまいりましたが、又策が譲吉のために成したことで特に大きいのは、譲吉の逝去に際し行った様々な顕彰運動が挙げられます。
7月22日の譲吉逝去から5日後、東京の又策の家で譲吉の告別式が営まれました。
又策のほか、井上準之助・穂積陳重・大河内正敏・大倉喜八郎・大橋新太郎・大谷嘉兵衛・高橋是清・高松豊吉・団琢磨・益田孝・副島道正・古市公威・浅野総一郎・北里柴三郎・岸清一・渋沢栄一・鈴木梅太郎らが友人総代として、九百人あまりの来弔者とともに譲吉を見送りました。
その中には、味の素の創業者である池田菊苗・世界的物理学者の長岡半太郎や田中館愛橘(木村栄の師匠)ほか多数の科学者、牧野伸顕・後藤新平・清浦圭吾ら政治家・官僚、徳川家達・前田利為ら侯爵、後の追悼式で演説を行う金子堅太郎・阪谷芳郎、武田薬品の武田長兵衛・日本のビール王こと馬越恭平ら実業家など、錚々たる面々の名前が確認できます。
その後、譲吉の妹・竹橋順が持ち帰った遺髪を受け取り、青山霊園に墓地を築きます。
ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬されている譲吉の墓が青山霊園にも存在するのはこうした経緯があったのでした。
9月には三共で奨学金や公益事業への援助のため「高峰謝恩紀念基金」を設立。
譲吉没後の様々な活動を取り仕切っていきます。
そしてここまでしてなお、又策としては譲吉の業績を後世に伝える「何か」を残したいという想いが渦巻いていました。
そこで自ら編纂をおこない手掛けたのが、譲吉の業績及び各国の追悼記事・演説などを収集・編纂した伝記『高峰博士』です。
その内容は、最初に又策による譲吉の生涯を綴った本文、ニューヨーク新報やニューヨークヘラルド、ニューヨークタイムスなどに掲載された譲吉逝去に関する記事、国内の記事、高松豊吉らの追悼文、11月の追悼式で行われた渋沢栄一・大河内正敏・阪谷芳郎・金子堅太郎らの追悼演説の全文などが収録されています。
このうち、ニューヨーク新報の記事は『In Memoriam Dr.JOKICHI TAKAMINE』にも掲載されていないため、大変貴重な資料となっています。
また、追悼演説の全文など、本来であれば残されていないような演説が文章化されたことで、親友の栄一や戦友の堅太郎らの切実な思いが伝わってくる「生の声」をみることができます。
こうした業績並びに各種資料は、後の高峰譲吉研究や伝記作成の根本史料となっており、我々後代の人間としては高峰譲吉関係資料がまとめられた大変重要な資料です。
編纂理由について、又策はその冒頭で「高峰博士の事績は多方面にして及ぼすところ広く大であり、小編の尽くし得るところではなく片鱗に過ぎないが、博士への思慕の情禁じ難くこの編を成した」と譲吉への深い敬愛の念を語っています。
ただ、その制作は一筋縄ではいきませんでした。
というのも、翌年(1923)に起きた関東大震災によって、印刷所に預けていた原稿が紛失してしまうという悲劇…。
又策本人も震災で打撃を受けた会社などの復興に追われ、中々手が付けられない状況が続きました。
それから3年後、幸いなことに原稿が焼失せずに残っていたことが判明!
こうして『高峰博士』は無事刊行されることとなりました。
それでもまだやる気に満ち溢れていた又策は、譲吉の没後10 周年を前に、「高峰博士の数々の事績を摘録すべく」三共職員に編集を依頼し、譲吉の業績部分を再編集した『巨人 高峰博士』(1931)を刊行します。
譲吉の没後、その顕彰運動に最も尽力したのは又策でした。
一青年実業家だった又策に、タカジアスターゼの国内販売を快諾してくれた譲吉。彼の生涯はこの時から大きく変わっていきました。
塩原又策にとって、高峰譲吉とは、恩人であり、盟友であり、その生涯のかけがえのないパートナーだったことがうかがえます。
第一三共の歴史展示室には、譲吉が又策の求めに応じて贈った揮毫が残されています。
ふたりの深い絆が垣間見える資料です。
以上、今回は第一三共さんから資料をお借りした経緯から、高峰譲吉と塩原又策の関係についてみてみました。
没後100年にあたり、改めて高峰譲吉の事績を調査する中で、『高峰博士』には何度も助けられました。
故・塩原又策氏にこの場をお借りして感謝申し上げます。
参考文献
塩原又策編『高峰博士』(大空社、1998年)初版1926年
高瀬誠三郎 編『三共思ひ出の四十年』(1938年)