福祉の歴史に金沢あり! ―番外編・井上友一と福祉―
次回は善隣館編!とお伝えしていたのですが、企画展で泣く泣く端折った部分について、番外編としてお届けします(唐突)
企画展のテーマが「金沢の福祉」ということで、枠の都合もあって触れていない(酷い)のですが、実は中央政府にあって福祉に携わった金沢出身の偉人がいました。
その名は井上友一(1871-1919)。
徳田秋聲や泉鏡花の小学校の先輩にあたり、鈴木大拙・西田幾多郎・藤岡作太郎たちと石川県専門学校、第四高等中学校で交友を深め、帝国大学を卒業後は内務官僚となり最後は東京府知事に就任という、エリート街道まっしぐらな人生を歩みます。
ただし、実際の彼は出世欲がなく、仕事を生きがいとして現場での実務を好んだ珍しい(?)タイプの官僚であり、明治末~大正時代にかけて地方改良運動、感化救済事業、青年団の育成など多くの政策に取り組んでいきます。
まずは当時の日本社会の状況について見ていきましょう。
地方の疲弊と地方改良運動
明治末期、社会問題となっていたのが、地方-特に農村部の疲弊でした。
現代社会の悩みの種となっている都市部への人口流出問題。実はこれは今に始まったことではございません。
江戸時代にも人返し令があったように、農村部から都市部への労働力の流出は都市部が発展すればするほど起きる課題でした。
明治に入ると、東京を中心とした都市部では商工業が発達したことで、働き口を求めて全国の若者が都市部に流入。また徴兵制・学校制度の成立による若者・エリート層の都市部への集中が顕著になっていきます。
その結果、農村部では男女問わず若者が減少→労働力減少→耕作地が減少→地主の収入減少→地域全体が貧しくなる…という負のスパイラルが完成していました。
さらに追い打ちをかけたのが日露戦争。
数多くの戦死者、多額の負債を抱えながらも、結局賠償金を得ることがなかった結果、日本経済はガタガタとなり、地方社会の疲弊は深刻なものとなっていました。
まあ都市部が元気ならそれでいいじゃないか―
というはずもなく、地方(根っこ)が元気でなければそれを吸い上げる都市部(幹)もどんどん先細ってしまうため、国としてもなんとか手を打たねばならない状態でした。
そこで、財政難に陥った市町村財政の立て直すことを主眼に、内務省が音頭を取ったのが地方改良運動でした。
そして、こうした活動の中心的立場にあったのが、井上友一です。
日露戦争に先立つ明治33年(1900)、パリの万国公私救済慈恵事業会議に出席するため渡欧した井上は、欧州各地の救済制度を視察しました。
その結果、地方自治の重要性を痛感することになり、帰国後は地方自治の研究と実践にまい進していきます。
たとえば、全国の地方有力者、篤志家、神職、僧侶などの交流の場を設けて全国ネットワークを構築し、国と地方のパイプ役を担ったほか、
多忙な中でも地方自治の研究を進め、社会福祉や都市計画、神社、文化遺産保護、図書館構想、郷土史など、多岐にわたる研究書を著しました。
館蔵品展でも紹介した国府犀東など優秀な人材を部下に据え、全国各地を文字通り東奔西走しながら地方社会の復興のために粉骨砕身していきます。
このように、井上は地方自治に関する様々な取り組みを行ったのですが、その一つに救済制度すなわち公的福祉に関する政策がありました。
救貧と防貧
明治の公的福祉といえば「恤救規則」(1874)が著名です。
恤救規則は政府による救貧制度であり、対象者が極度限定されており公的福祉制度としては小規模なものでした。
早い話「そんな金ないから民間でなんとかしてね」
ということだったのでしょう。
その結果、小野太三郎ら民間の篤志家たちが地域住民の救貧を担ったわけです。
日露戦争後の疲弊した地方社会を建て直すのに、そこに救貧財源はそもそも全く足りません。
そこで井上は逆転の発想を提唱します。
「救う手を増やせないのなら、救う必要のある数を減らせばいいじゃない」
と。
これだけだと凄くおっかないことを言っているように聞こえますが、要は「救貧」ではなく「防貧」を提唱したのです。
すなわち、「政府の扶助が必要なほど生活困窮に陥ることがないように大衆を教育していく」ことを目指します。
井上は、救貧ばかりを手厚くすると、それに甘えて働かなくなる「惰民」が増殖することを危惧しており、救貧制度を充実させる前に、まずは防貧政策による大衆の教化が必要だと訴えていました。
そして、こうした防貧を地方自治体が率先して行い、地域住民が協力して地方改良を行っていくことを目指しました。
こうした政策は感化救済事業と呼ばれました。
井上の救済政策については様々な批判もありますが、古代以来の慈恵的救済政策に、防貧という視点が国主導で唱えられたことで、その後の社会福祉に大きな変化をもたらしていくことになります。
防貧とはすなわち社会教育であり、これが郷土史研究など様々な形となって地方社会に波及していきます。
井上はその後、第21代東京府知事に就任し、自ら地方自治を担う立場となりました。
東京養育院長を務めていた渋沢栄一と協力し、東京府慈善協会(東京都福祉事業協会の前身)を発足させています。
医療や福祉、社会教育にも力を注いでいた渋沢は井上府知事と懇意になり、都市計画や社会福祉などさまざまな面で協力していきます。
ところが、大正8年(1919)、渋沢らとの会食中に倒れ、志半ばで急逝してしまいます。
渋沢は早すぎる死を悼み、次のような追悼の言葉を残しています。
渋沢は自ら会長を務める中央慈善会(現 全国社会福祉協議会)もまた、井上がつくったものであるとし、府知事になってからも福祉のために様々な活動を続けていたことを紹介しています。
また、その書きぶりからは井上の温厚で誠実ながらも頑固で真っ直ぐな人となりが伝わってきます。
また、井上は内務官僚時代、「内務省の為に大いに働いてくれ」と言われた際、「私は内務省のために働いているのではない。天下国家の為に働いている。」と答えています。
もし彼が後数十年働けていたならば―と思う反面、常に全力で公務に当たっていたからこその早世であったのかもしれません。
このように、井上友一ら内務省が地方改良運動を展開した結果、地方自治体を補助する存在が登場していくことになります。
その名も、方面委員
(つづく)
今回紹介した井上友一は企画展には登場しておりませんが、常設展示でばっちり顕彰してますので、ご来館の際はあわせてお楽しみくださいませー!