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番外編 桐生悠々の筆禍武勇伝(?)

(※この記事は、旧雑報で2021年 7月22日に掲載したものを抜粋・加筆したものです。)

前回の雑報で「悠々の、周囲が熱狂してるときに一歩引いた視点から『言わねばならぬこと』を申す性格の片鱗を感じます(これについては番外編で…)」と宣言しましたので、今回は悠々のスタンスについて触れていきましょう。

悠々は信濃毎日新聞および新愛知主筆時代に書いた記事で様々な抗議・筆禍事件を起こしています。有名なのは、信濃毎日新聞を辞める要因になった「関東防空大演習を嗤う」ですが、もうひとつ悠々の合理主義的スタンスが存分に現れた記事を紹介します。

「陋習打破論」(『信濃毎日新聞』明治45年9月19日-21日掲載)

「陋習」とは悪い習慣のこと。すなわち「悪しき習慣をやめよ」というタイトルです。その悪い習慣が何を指すかというと、明治天皇崩御時に起きた乃木希典の殉死でした。

当時信濃毎日新聞主筆だった悠々は、世間が乃木大将の殉死に対して賛美一色状態となっているときに、このタイトルの社説を掲載しました。3日分という長い社説なので、その内容を意訳すると、

『五箇条の御誓文(※1)に照らすなら、殉死は打破すべき海外渡来の悪しき風習だ。忠君二君に仕えずなんてのは封建時代の思想であって、引き続き今上陛下を支えるのが道理でしょ。仮に殉死を美徳とするなら、陛下が崩御されるたびに貴重な人材がいなくなっちゃうじゃん。山縣とか井上とか桂とか(※2)は別にいいけど、西園寺公とか東郷平八郎がいなくなると困るでしょ?殉死の理由をあれこれ類推して利用しようとする動きもある。今回の殉死は、個人的には凄く泣ける話だけれども…世間はもっと冷静になろう。』
※1五箇条の御誓文一条の「陋習を破り、天地の公道に就く可し」から打破論を展開。
※2山縣有朋・井上馨・桂太郎:悠々から名指しで「逝って(も正直別に)よし」との烙印をおされたお歴々。

殉死に対する賛美が輿論を席捲する中、冷静に国体及び合理的観点から理由を述べ、殉死批判を展開しています。

人道的・倫理的観点からではない殉死への批判的アプローチは、東京法科大学政治学科出身という悠々の経歴も関係しているのかもしれません。

そして、この社説を掲載した結果…読者ブチ切れ
信濃毎日及び悠々への抗議や脅迫状が連日のように届き、しかし血気盛んだった悠々も紙面上で抗議者を煽って宣戦布告
擁護意見を積極的に載せるなど大喧嘩をはじめます。

当時の社長小坂順三は早速論説で『今回のは理性じゃなくて感情で受け止めるべき話だよね!』と悠々と意見違うよアピールをしつつ鎮火活動に取り組むなどてんやわんや。

この一件は結局時間が解決してくれましたが、小坂社長の言う理性と感情の線引きは色々考えさせられます。悠々も、周りが熱狂していることには一歩引いてものを申す反面、自分が土俵に上がった瞬間熾烈なバトルを繰り広げるのが人間臭くていいですね。

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ちなみに、明治天皇の大葬、乃木大将の殉死の情報をいち早く入手したのも悠々でした。大葬取材のために上京した悠々は、古巣(大阪朝日)の好で東京朝日新聞社に入り浸ってそこで情報を得て(えっ…)本社へ記事を送っていました。

どうやら、朝日が極秘に入手した乃木大将の殉死の一報を立ち聞きして大至急本社へ電話したといいます。おかげで地方紙でありながら朝日の次に事件の掲載が早かったとか。

しっかし…古巣とはいえ他社に入り浸り、そして朝日側もそれを受け入れているというのが、破天荒というか豪快というか大らかというか、凄い時代だな…と、明治人の熱量を感じさせるエピソードです。

さて、この他にもたくさんの筆禍事件を起こしている悠々ですが、その生涯に興味が沸いた方に朗報!

なんと井出孫六『抵抗の新聞人 桐生悠々(岩波新書)』(岩波書店、1980年)が、今年9月に岩波現代文庫として装い新たに復ッ活ッ!

上述の「陋習打破論」や「関東防空大演習を嗤う」の全文も載っていますので、興味を持った方は是非悠々の“反骨”の生涯をご堪能ください。

次回は再び秋聲と悠々の上京についてみていきましょう。