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④平和の祭典(その3)

派遣問題やらもありましたが、なんやかんやで参加することになった1952年ヘルシンキオリンピック。

まーちゃんは団長として、大島は毎日新聞のオリンピック取材記者として、それぞれ参加することとなります。
ということで今回は、“ジャーナリスト”大島鎌吉について掘り下げていきましょう。

自由人 大島鎌吉

大島はヘルシンキ大会の取材のために渡欧するわけですが、「やりたいことはなんでもやってやろう」の精神のもと、この欧州出張をフルに活用した取材活動を行います。
そこで出張の道程はこんな感じ。

日本→ローマ(イタリア)→アテネ(ギリシャ)→ヘルシンキ(フィンランド)→東ベルリン(ドイツ)→日本

…なんか寄り道多くない?
大島は何故ローマやアテネ、東ベルリンに立ち寄ったのか。

鎌ちゃんのエ~~~!!?ピソード
ローマ教皇に単独取材

 やると決めたことはとことんやり遂げる鎌ちゃん。その行動の自由さから、自他共に認める“自由人”として名を馳せていました。そのため組織にいても上に従わないこと山のごとし。会社で社長とすれ違う際は「よっ元気か?」と肩ポン。

 会社からの命令でヘルシンキオリンピックの取材担当となった鎌ちゃん。しかし、大会の日取りより大分早く欧州入りします。
 そして、オリンピックの記事を待っていた本社社員の元に送られてきた第一号記事は、ローマ教皇との特別謁見。

 なんと鎌ちゃん、会社に断りなくローマに立ち寄って、戦後のイタリアのスポーツ事情を視察。そしてそのままバチカンに入国してローマ教皇に単独取材を敢行します。さらにその足でアテネへ飛んで翌日の採火式を取材(日本初)。
 これらは全て会社に無断で単独行動としてやったこと。勝手な行動に社長は激怒しますが、スクープはスクープなので鎌ちゃんの記事が紙面を彩ります。

 大会終了後に報告会のため帰国命令が届きますが、折角だからとドイツに移動して東ベルリンに潜入。
 こうして会社の怒りを買いつつもヨーロッパを縦横無尽に動き回り、ダイナミックなスクープ記事を次々生み出していきますが、出世コースからもどんどん外れていきました。

 因みに大会中は、“フライング・フィン”パーヴォ・ヌルミ(1897-1973、陸上選手)や、知人だった(!)フィンランド大統領相手に単独インタビューを行い、諸外国のメダル候補者を取材、さらに彼らと日本人選手たちを交流させるなど八面六臂の活躍をみせています。

また、ヘルシンキでの大島の活躍は、他の新聞記者達の間でも語り継がれていました。
曰く、
・フィンランド人は英語が苦手でドイツ語なら話せる人が多いので、ドイツ語堪能の大島が引っ張りだこだった
・どこどこの選手の試合は取材しておくと良いと言われ取材したら世界新記録でメダルを獲得した
・海外の選手や役員(さらには大統領)たちとの交流の幅が大変広い
などなど

その中でも、大島の人柄を象徴するエピソードが残されていますのでご紹介します。

新聞記者の安保久武はヘルシンキの帰りに、大島からクーサモという第二次世界大戦のフィンランド対ソ連の有名な戦場があるので見ていくといい、とアドバイスを受け、クーサモを訪れます。その帰路に車が川中に転落するという事故を起こしてしまい、途方に暮れていると、現地のフィンランド人に助けられ介護を受けます。
話を聞いていると、なんと偶然にも大島の知人であったことが判明。当時特派員としてフィンランド戦線を取材していた大島と偶然知り合ったらしく、その人柄を大変尊敬しているとのことでした。

 大島さんのご人徳が、まわりめぐって、苦境にあった同僚の私達に果報となってそそがれたのだ、と私はこの偶然に感謝せずにはいられなかった。私も、仕事を通じて、大島さんには、ひとかたならぬお世話になったが、大島さんはあまり自分の自慢話のようなことは語る人ではなかったので、クーサモを訪れて体験した「偶然」のできごとやヘルシンキ・オリンピックでの体験をとおして、改めて大島さんのお人柄に感心したような訳だった。(安保久武記)
――安保久武「大島さんの思い出」『スポーツの人 大島鎌吉』p54

東西の壁と希望

ヘルシンキオリンピック取材から戻った大島は、他社の担当記者との座談会に参加します。テーマは”英語”。
参加する記者の中でも英語が話せる方だった大島は次のように答えています。

大島 僕の英語なんて,いいかげんなものだよ。ただ,自分では自分の英語が正しいと思っているから,自分の話がフィンランド人に通じないと,どうしてわからぬのだろう,英語を知らないのかなと思っている。ところがアメリカ人やイギリス人がやつて来て,ペラペラやるとさつぱりわからぬ。なんだ,こいつら間違つた英語を使つてやがる,と思つたりしてね……。(笑声)
――「座談会 ヘルシンキから帰りて―英語土産話―」p69
大島 新聞記者はたいてい三カ国語は使う。国際スポーツ記者連盟の会合なんか,あつちでドイツ語を話している。こつちでは英,向うではフランス語を話している,という調子で,言葉が交錯しているのだから,やつぱり三カ国語くらい話せなくちゃ駄目だね。
――「座談会 ヘルシンキから帰りて―英語土産話―」p71

自分の英語なんていい加減だよと謙遜しつつも、新聞記者は三カ国語は話せないといけない、と、ジャーナリストという職業に対する矜持を感じ取れます。
ちなみに、大島は一番得意なのがドイツ語で、その他英語とロシア語もそこそこという、日本語含め4カ国語をマスターしています。

ただ、この座談会の中で話題になったのは、東側諸国のスポーツ選手についてでした。

今回40年ぶりの参加となるソ連。その理由は、諸外国にソ連の国力を見せつけることにありました。
前回大島が国会答弁で、ソ連は国家主導でスポーツ選手を育成するという、オリンピックの掲げるアマチュアリズムとの決定的違いを指摘し、こうしたプロスポーツ化と勝利至上主義が進めば、金のある国が上位を独占し、そうでない国は参加意欲を失ってオリンピックが崩壊する―こうした懸念を述べていました。
あくまでオリンピックの原則に従って、アマチュアリズムを貫こうとする英米の西側諸国と、社会主義のもと国家主導でプロ選手を育成するソ連率いる東側諸国の対立は、スポーツ界の冷戦構造となっていました。

また、冷戦の影響は選手間の交流にもあらわれていました。座談会に参加した記者たち曰く、当初は東側諸国の選手たちは西側諸国の記者に取材を受けないよう指導を受けていたのです。
本来世界のアスリートたちの交流の場であるオリンピックでも、東西の壁が築かれ始めていました。

しかし、最初は分断されていた壁も、大会後半に近づくにつれて次第に崩れ、いつしか普通に取材対応できるように。
記者たちは、国はともかく選手たちは西も東も関係なくスポーツを楽しんでいると感じたようです。
スポーツの上では、政治も思想も関係ない――そんな希望を取材記者たちは見出したのでした。

大島もまた、ヘルシンキ大会で感じた東西の壁とその希望から、欧州に築かれたもうひとつの壁(この時はまだ物理的にはありませんでしたが)を取材するために、東ベルリンへ潜入します。

当時厳戒態勢が敷かれていた東西ベルリンの境界線(ポツダム広場)から、車で東ベルリンへ。日本人記者として初めての東ベルリン取材でした。

人々の抱いているささやかな希望は、どんな人間も同じだと信じたかった記者はヘルシンキのオリンピックがそうであったように人種、思想にもぶつかれば何の障害にもならないと考えた。
――大島「東ベルリンを見る」『スポーツの人 大島鎌吉』p50

かつて戦時中住み慣れた東ベルリンは一部の建物を除き、相変わらず廃墟のままでした。
大島はこの取材でみた景色を「東ベルリンを見る 上・中・下」として毎日新聞に掲載し、東ベルリンの現状を事細かく伝えていきます。
また、現地でとった写真は『ふたつのベルリン』というタイトルのアルバムとして大切に保管していました。

かつてはドイツの首都として華やいでいた街が、戦争で悉く廃墟と化し、現在は二つに分断されて統治されている――ベルリン特派員としてベルリンの栄枯盛衰を眺めてきた大島にとって、ベルリンの様子についてはひと際思い入れが強かったのかもしれません。

こうした欧州出張での経験から改めて世界平和を意識します。大島は帰国後、オリンピックの意義と参加することの意味について次のように語っています。

   本当の意味は五大州の若者達が4年に一度一堂に集まり、裸になつて同じルールの下で各自がベストを尽して競技をし、それを通じて人々が永久に親しみ合う場をもつということだ。
 会場では世界の友と交わり合う、競技ではベストをつくして互いに最高を求める。この芸を追求する協力一致の精神肉体混然一体の世界こそわれわれの久しく願つているものであり、大きな魅力がある。
 こゝでは努力して強くなつたものは強いと決まり、弱いもの、努力の足りないものは敗けるに決まつている。何んな形の不正も虚疑も作意もさしはさむことが許されない。
 又、色が黒いとか黄色いとか、思想や宗教やお金がどうだとかこうだとかいつて差別したり、斜視でにらんだりしない。凡べて平等の一個の人間が平等の条件の下に立つているのである。
 お互いが平等の立場に立つて間違いなく競技できるからこそ、相互が親和し信頼感が生まれてくる。相手の勝利には祝福の拍子も送れるし、敗北には親身の同情も生まれるのである。
 かつて一言も語る機会のなかつた東西の別の世界の人間が百年の知己であつたかのように親愛を傾けられるのもオリンピツクならばこそである。だから人間の考えた施設のうちでオリンピツクだけは、世界で最も優れたものであり、それこそ平和を望む人類の最大の文化財であると思う。
――大島鎌吉「五輪參加とアマチユアスポーツの擁護」pp5-6

大島はオリンピックの本来あるべき理想の姿を上記のように描きつつ、続けて現在その理想が(1)政治的支配(2)商業主義の支配、によって脅かされていることに警鐘を鳴らしました。

(1)政治的支配とは、戦前ドイツや日本が国威発揚のためにオリンピックを利用した(しようとした)ことや、現在はソ連が東側諸国への国威発揚と西側へのアピールのために利用していることについて。

(2)商業主義の支配とは、欧州サッカーの商業化を事例に、選手がスポンサー企業の広告塔として利用されている現状から、金銭主義が進めばオリンピックもまた金のために開かれるイベントになってしまうことについて。

こうした現状の懸念を把握した上で、(3)日本の現状として「必勝主義の残滓が猶その細胞の中に巣食うている」(同上、p7)ことを憂い、これからのスポーツ界を担う若者たちに上で述べた本来あるべきオリンピック(アマチュアスポーツの祭典)の姿を取り戻せるよう強く訴えかけていきます。

大島はベルリン大会以降のオリンピックのあり方について強い危機感を抱くようになっていました。
こうした中で、大島はオリンピックの東京招致を目指します。
その理由を「世界の平和運動を東京に持つて来たいというきわめて大きな希望」と国会答弁の中で語っていましたが、大島としては本来の在り方から迷走していくオリンピックが“手遅れ”にならないように、自分たちの手でオリンピックを開催したいと願ったのかもしれません。

こうして1950年代の大島は東京オリンピック招致に向けて様々な活動を展開していきます。
そんな中で、東京招致を揺るがす大きな事件が発生します。
まーちゃんたちが組織していた日本オリンピック後援会の横領事件です。

…て、まーちゃん!??

「ね、寝耳に水じゃんねーー!!??」


次回:東京招致

参考資料・文献
大島鎌吉「五輪參加とアマチユアスポーツの擁護」(万有社編『アスリーツ・ハンド・ブック : 陸上競技練習必携. 1952年版』万有社、1952年)
入江徳郎・志村正順・菅沼俊哉・大島鎌吉「座談会 ヘルシンキから帰りて」(『The Youth's companion』7(8)、1952年)
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)
伴義孝『大島鎌吉というスポーツ思想―脱近代化の身体文化論―』(関西大学出版部、2013年)