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館蔵品展【前期】の見どころ紹介③ー小川直子編ー

偉人館がこれまで集めてきた偉人に関する資料をピックアップして公開している
館蔵品展「いじんコレクション大公開!」
その前期―明治・大正編―について引き続き見どころをお伝えしていきます。

悲劇の未亡人は女子教育の模範に 小川直子

短歌「新田左中将」

 沈めてし つるぎの
光 しるしありて 
なぎはらひけむ
 鎌倉のさと

こちらの句を詠んだ人物は小川直子(1840-1919)。
明治~大正時代にかけて女子教育の模範的教育者として知られた人物です。

加賀藩士の家に育ち、幼い頃から和歌を嗜み、深い教養を身に着けていきました。
幼少期からの英才教育(?)が後の直子の生涯の助けとなって行きます。

愛する夫のために

結婚適齢期(当時)を過ぎても、なかなか乗り気ではなかった直子でしたが、とある青年と出会い、心を通わせていきます。
そして文久3年(1863)、23歳の頃にその青年と結婚します。
夫の名は、小川幸三
鶴来(現在の白山市)出身の加賀藩士で、勤王志士として知られていました。

ん?

幕末……加賀藩……勤王志士…………?

えー察しの良い方はお気づきかと思います。

元治元年(1864)に勃発した禁門の変(長州藩が起こした軍事衝突)の際、13代加賀藩主・前田慶寧が退京したことを理由に加賀藩にも幕府方から厳しい目が注がれました。
この際、長州方に賛同していた勤王志士たちは、罪人として粛清されることとなりました。

無論幸三も。
幸三は藩主に意見具申をしたことを咎められて投獄されました。

僅か一年の結婚生活でしたが、直子は勤王活動に勤しむ幸三のために困窮生活を耐えながら夫の活動を支えてきました。
貧しい中で愛を育み、漢文で恋文のやり取りをするなど素養の高い夫婦として仲睦まじく過ごしてきた二人。
その夫が処刑されるという話が聞こえてくると、直子は奉行所に夫の助命懇願に向かいますが、かえって罪人として実家謹慎を命じられてしまいます。

直子が謹慎となっている間に、幸三は処刑されてしまいます。

辞世の句は「敷島の 我があきつすの 武士は 死ぬとも朽ちじ 大和魂」

謹慎処分が解かれた直子は、墓参り後に幸三の後と追おうとしていましたが、母親が勘づき後追いを阻止!
家族から必死の説得を受け、夫の遺志を受け継ぎ教育者として生きることを誓いました。

余談ですが、加賀藩はこの時に勤王志士を大粛清したために明治維新の際に目立った活動が取れず「維新のバスに乗り遅れた」と揶揄されることになります。
この時、同じく勤王志士として投獄された人物の中には、野口遵(旭化成の創業者)の父・之布(ゆきのぶ)もいました。
彼は獄中で明治維新を迎え、その後は新政府の官僚や前田家編纂方として活躍しました。
今回、之布が直子に宛てた手紙も展示しております。

女子教育者として

明治維新後、直子は教育の道へ進むことを決意します。
小学校の教師として読書や裁縫を子どもたちに教えました。
その後は石川県女子師範学校のほか青森や京都で女子教育に力を尽くしました。
青森では4年任期のところ、女子生徒たちからの懇願により校長が県にかけあって任期を一年延長するという人気ぶりでした。
青森を離任後、一度東京で漢学を学び直します。この時直子42歳。
師匠となった重野安繹(通称「抹殺博士」)は、直子の学問に対する情熱に敬服したといいます。

京都で働いていた頃、直子の博学さに目を付けた人物がいました。
その名は品川弥次郎。
当時内務大臣だった品川は、直子をの明治天皇皇女の養育係にと推薦したのです。
こうして直子は常宮昌子内親王(六歳)と周宮房子内親王(四歳)の養育係となりました。

実は、直子の本名は「昌子」と言いました。
内親王が同名ということで「直子」と改めたという逸話を持ちます。
直子は再び東京に戻り、高輪御殿に通うこととなります。
館蔵品展前期では、高輪御殿や皇族関係者からの手紙も展示しています。

十年にわたる内親王への講義録は、戦前の教科書にも採用されるなど、女子教育の一つの模範とされました。

生涯再婚はせず、養子をとって養育していた直子。
明治に入ってから、幸三が獄中で詠んだ辞世の句を知人から渡された際、その表情は恋する乙女となり、その様子を見ていた友人は「天女のようだった」と語ります。

幸三と直子が過ごした家は残っていませんが、直子は幸三のために石碑を立てるなど、その地位回復に尽力しました。
直子没後、墓は鶴来の船岡山にある幸三の墓の隣に建てられました。
地元ではこれを「模範夫婦の墓」と呼ぶそうです。

ということで、今回は小川直子資料について紹介しました。
次回はまた別の「いじんコレクション」を紹介してまいります。

おまけ 女性の偉人が少ない理由

見学にくる小学生たちから、「どうして女性の偉人さんは少ないの?」という質問がよくあります。
近代、特に明治時代、女性が活躍できる場は男性に比べて圧倒的に限られていました。
女子教育においても、「良妻賢母」の育成ということで、女性の社会進出よりも「家を守り、立派な後継ぎを育てること」が至上という考えが主流でした。
当館の偉人でも教育・文学(戦後は政治)の分野で活躍した女性は多いですが、研究・技術・実業・ジャーナリズム・農林水産業・建築・美術工芸の分野で著名な人物は、男性に比べると輩出されておりません。

若き日の高峰譲吉を支えたメアリー・ヒッチ(キャロライン婦人の母)は女性実業家としてアメリカで活躍していたことを考えると、女性の社会進出という面では同時代の日米で大きな隔たりを感じますね。

一方で、女性の研究・社会進出を支えた偉人たちも数多くいます。
女性初の大学進学を可能にした北條時敬(東北帝大に女子大生誕生)
女性初の博士を育てた藤井健次郎(保井コノが理学博士号を取得)
妻・龍子(田辺花圃)と共に雑誌『女性日本人』を刊行するなど女性の社会進出や婦人参政権獲得を応援した三宅雪嶺
等々

現代では反対にジェンダージェンダーしたことを言うのはタブーになってまいりましたが、当時はまだまだ男女の間で格差が大きく、偉人として顕彰されるような立場になれる女性は一握りでした。
そこから様々な人々の奮闘・努力によって、女性の大学生も科学者も社長も議員も当たり前の時代になってきました。
明治から現代まで160年に満たない間に、様々な価値観が大きく変容していったのが分かります。

未来はどのような価値観になっているのでしょうね。
一周回って「AIがあるから文字書きや学芸員なんか不要!(失職!)男は力仕事してろ!」って時代もあるかも…?

※追記
実業の分野で活躍した女性は少なかったと書きましたが、常設展示で顕彰している加藤せむ(1869-1956)は教育者としての顔の他に、学校経営者(金城女学校、現 遊学館高等学校)として、困窮極まる中でも東奔西走し、見事学校を維持・発展させた偉人です。
金城女学校の創始者たる夫は学校設立翌年に病死。夫の遺志を継ぎ、6人の子どもと生まれたばかりの学校を守るために奮闘しました。
また、トキワ松学園の創始者である三角錫子も学校経営に情熱を注いだ偉人です。
実業とは少し違いますが、いずれも女子教育のために私学の女学校を興して奮闘したパワフルな女性経営者でした。