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⑥稀代の鳥類画家・小林重三 後編

前回は重三の生い立ちと鳥類画家としてデビューする経緯まで、駆け出し時代の重三について見てきました。
後編では、鳥類画家として八面六臂の活躍を始める重三と悟堂とのかかわりについてみていきましょう。

松平頼孝の鳥類図鑑構想

さて、鳥類学者・松平頼孝が重三を雇ったのは、頼孝が自らの収集した標本をつかった鳥類図鑑を完成させるためでした。
重三に経験値を積ませるために、時に諸外国の鳥類図鑑を取り寄せて絵のタッチを勉強させ、時にフィールドワークに連れていくなど、重三を手塩に掛けて育てます。
この松平家にいる間に重三が描いた鳥の絵の点数は千とも三千ともいわれています。しかし、現在その絵を確認することはできません。というのも、とある出来事によって、すべて散逸してしまったのです。
そこに至るまでの経緯について簡単に触れていきましょう。

鳥類画家としてデビューした翌年(1915)、内田や頼孝らの所属する日本鳥学会が学会誌「鳥」を刊行します。
この創刊号の口絵に描かれている鳥の絵(カラー)は、重三が描いたものでした。
頼孝の推挙があったとしても、それで創刊号の口絵を任されるのですから、他の鳥類学者たちも駆け出しの重三を高く評価していたことが分かります。

更に翌年(1916)、頼孝は今まで収集した膨大な量の標本を展示するため、鳥類標本館を敷地内に建設し、その一階には重三の画室も設けられました。
この標本館設立後も頼孝は珍しい鳥を発見したということで自ら船で海上に出て捕獲するなど、収集に情熱を注ぎ続けます。
こうして国内外の鳥類標本を集め続けた結果、そのコレクション数は1万点を超えるまでに至りました。

重三にとって画家としての師匠が木下藤次郎ならば、鳥類画家としての礎を築いてくれたのは松平頼孝といって過言ではありません。
鳥類標本の収集と鳥類図鑑作成にかける頼孝の尋常ならざる情熱が、小林重三という若き原石をゴリッゴリに削り磨きあげていったのでした。

重三はこの頃の暮らしをどう思っていたのかというと、頼孝の庇護下で裕福な暮らしができており、高価なドイツ製の煙草を愛用し、頼孝の子ども頼則にも慕われるなど、居心地の良い環境であったようです。
また、頼孝の勧めで帝展に風景画を何度か出展(いずれも落選)するなど、風景画家としての夢にも挑戦していました。

こうして標本収集に熱中する頼孝のもとでメキメキとその実力を高めていく重三でしたが、その生活は長くは続きませんでした。

大正12年(1923)、松平家が財政難に陥り、鳥類図鑑作成を断念せざるを得なくなってしまい、重三は職を失ってしまいます。
頼孝が標本収集に莫大な財産をつぎ込んでいたことや、事業の失敗などが重なり、一気に財政が悪化。屋敷地を売却して借家住まいになるほどに頼孝一家は困窮します。
この状況下では収集された1万点の鳥類標本を維持することも難しく、鷹司ら鳥類学者たちが分割して購入し、一旦は散逸を免れました(戦災でほとんど焼失)。一方、重三が鳥類図鑑用に描いたとされる数千点の鳥の絵はどこかへと散逸してしまいました。

頼孝の庇護を受けられなくなった重三は、黒田長禮のもとに通いながら鳥の絵を描いて生計を立てていきます。
しかし、お抱え絵師だった頃と比べると収入が激減。他の鳥類学者などにも絵を買ってもらういつつも、小林家の家計は常に火の車状態に陥ってしまいます。

が、重三はこれまで通り外国産煙草(国産の6倍の値段)を一日100本ペースで吸い、大好きな晩酌をし、たまに一人でカフェなどに通うなどバリバリお金を使っていったという、芸術家らしいエピソードが残されています。
結果、息子さんは質屋の店主と顔馴染みとなり、また奥さんは質屋に自分の着物や重三の背広なども預けたとか。

それでも小林家が困窮して一家離散にならずに済んだのは、頼孝のもとで12年にわたり鍛えられた鳥の絵のおかげで仕事が絶えることがなかったためでした。
むしろ、鳥類画家・小林重三の全盛期は昭和に入ってからやってきます。

鳥類画家としての活躍

松平家に雇われていた頃は、お抱えだったこともあってかあまり外部の鳥関連本に挿絵を描いている事例は少なかった(そうしなくても生活できていたからかもしれません)のですが、昭和に入る頃からは各種図鑑や雑誌に重三の絵が多数掲載されるようになります。

中でも特に有名な仕事が、<日本の鳥の三大図鑑>すべての挿絵を担当したという事績です。

三大図鑑とは、
・黒田長禮『鳥類原色大図説』全三巻(修教社書院,1933-34)
・山階芳麿『日本の鳥類と其の生態』全二巻(未完)(梓書房・岩波書店,1933-41)
・清棲幸保『日本鳥類大図鑑』全三巻(大日本雄弁会講談社,1952)
を指し、現在でも高い評価を受ける鳥類図鑑です。

特に、黒田の『鳥類原色大図説』では1092種の鳥の絵を描いています。
しかし、これら重三が戦前に描いた原画の多く―特に黒田家で描いたものは戦災によりほとんど焼失してしまいました。

この戦災では黒田邸のみならず鷹司邸も焼け落ち、頼孝から購入した標本たちもすべて焼失しています。
そんな中で奇跡的に焼失せずに済んだのが、山階芳麿の標本館であり、現在の山階鳥類研究所の膨大な資料の根本をなしています。

また、戦前に清棲が『日本鳥類大図鑑』のために執筆した多くの原稿は燃え盛る印刷所と運命をともにしたようですが、重三の原画は辛うじて手許に残されていたようです。戦後まもなく清棲が重三に図鑑の追加の挿絵を依頼しにやってきたことは、職を失いかけていた重三にとっても大きな活力になったと言います。

このように、戦争を通して数多くの貴重な鳥類に関する資料が永遠に失われてしまいましたが、清棲のように奮起して刊行に漕ぎつけるなど、鳥類関係者たちはその情熱を絶やすことなく再び邁進していきます。
そうした中に、中西悟堂もいました。

悟堂と重三

黒田の『鳥類原色大図説』が完成した昭和9年(1934)といえば、悟堂が日本野鳥の会を創設した年であり、日本の鳥類界隈に新たな風が吹き込まれた年でもありました。

ただ、悟堂と重三の直接の交流が見えるのは戦後になってからで、当時は悟堂が一方的に名前を知っていたか―という感じだったのかもしれません。
では悟堂にとって、小林重三とはどのような存在だったのか―

悟堂は雑誌『野鳥』に寄稿した「故小林重三画伯遺作展」で、次のように重三を評しています。

もともと水彩画家として出発し、絵画の筆法、描法も十分身につけていた専門画家でもあった強味から、いったん⿃の形体・色彩に詳しくなってからの鳥画は、美術の素養とてない標本画のそれと異り、確実精練ながらにおのずから生気を秘めた名品となり、名実共にわが国の第一人者としての本格の鳥類画家であった。

「故小林重三画伯遺作展」『野鳥』1977年8月号

もうべた褒めです。

勿論追悼号の中で変な事書かないとは思いますが、悟堂の著書の中で度々重三の絵や技法について高く評価しており、決してお世辞ではないことが伝わってきます。

例えば、悟堂は『原色野鳥ガイド』作成に向けて、戦前の『野鳥ガイド』では”敢えて”入れていなかった「鳥の繁殖・卵」の項目を追加するため、重三に卵の絵を依頼しています。
この重三の鳥卵図について、悟堂は

小林重三氏はほとんどの鳥卵の大きさも形も斑紋もマスターしていて、何の鳥の卵と注文しただけでたちどころに描けるほど造詣が深い。こんな画家も今後容易に現れまい。

「卵談随記」『野鳥』昭和45年2月号

やはりべた褒め

これほどまでに重三の鳥の絵に惚れ込んでいたからこそ、『原色野鳥図譜』と『日本野鳥ガイド』の二回にわたり、重三に挿絵を依頼していたとみられます。
故に、『原色野鳥ガイド』が”まぼろし”となってしまった後も大切に保管しつづけ、今にその美しい彩色原画を伝えています。

鳥卵図(『日本野鳥ガイド』)

晩年の重三

戦後は息子一家を頼って神奈川県の藤沢に移住し、趣味で湘南の風景画を描きながら鳥の絵を中心とした依頼を受けていました。
77歳の時には銀座で個展を開くなど、喜寿を過ぎてもパワフルに画家として活動を続けていきます。

晩年の重三の仕事として著名なのは、林野庁(当時)から依頼されて作成した20年分の「野鳥カレンダー」の挿絵。

…20年分!?

勿論一気に描いた訳ではなく毎年担当していた、ということです。
なお、初年度が昭和26年(1951)で重三64歳。つまり84歳で体調を崩し入院するまで毎年描き続けていたわけです。
そしてまた、所謂「博物画」としての鳥の絵ではなく、どちらかというと芸術的なタッチで描いていたことも特徴です。

80歳を超えても精力的に活動していた重三でしたが、84歳の入院以降は流石に仕事として鳥の絵を描くことはなくなりました。
とはいえ少しでも元気がある時は、スケッチブックをもって風景画を描いていたといいます。
またこの年、日本鳥学会から名誉会員に推薦されるなど、長年にわたる鳥類学界への貢献が高く評価されました。
それから4年後の昭和50年(1975)、88歳の生涯を閉じます。

さて、ここまでお話していてお気付きの方もおられると思いますが、
こちらの絵

「シマキジ」『日本野鳥ガイド』挿絵

大体古稀(70歳)を迎えた頃に描いたものです。

現物をみたら、その小ささと細やかさに驚愕させられます。
これが稀代の鳥類画家の熟練の技…。

そんな重三の原画が間近で見られるのは、令和4年(2022)8月28日(日)17時までになっております。
まだ見ていない!という方は最後の土日に滑り込みで如何ですか?
その日は13時30分よりギャラリートークも開催しますので、よろしければ併せてご拝聴くださいませ。

参考文献
特別展図録『鳥類画家・小林重三』(平塚市博物館、1994年)
国松俊英『鳥を書き続けた男』(晶文社、1996年)