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②ロサンゼルスオリンピックじゃんねー!!(3/3)

金沢ふるさと偉人館
岸「勝ち負けにのみこだわるのはオリンピックの精神に反する!」
田畑「それは明治の話だよ~、もう昭和だよ? 参加することに意義ないわ~、いい加減勝てよって、みんな思ってるよ」
――第26回「明日なき暴走」より

第27回「替わり目」では、第一部の主人公金栗四三(中村勘九郎さん)が帰郷し、主役交替が明確に示された回でした。
そして、第28回「走れ大地を」では、1932年ロサンゼルスオリンピック準備の裏で進行する、満州事変や五・一五事件、そしてそれに熱狂する民衆、新聞に見切りをつけて政治の世界に飛び込む河野…。
桐生悠々などを絡めてここら辺の内容でも一本書きたいですが、あくまで主役は大島鎌吉。
国内外の政治情勢はひとまず置いておいて、この頃の大島をのぞき見てみましょう。

「跳ぶ哲学者」始動(第27、28回)

関東一強であった当時の大学陸上競技界において、大島率いる関西大学は早稲田、慶応、明治などと互角の戦いを行い、関大陸上競技部の黄金期を築き上げていました。
スポーツに邁進する一方、もう一つ力を注いでいたのが――勉強。

【鎌ちゃんのエ~~~~!!!ピソード】
『文武両道を有言実行』

 当時メキメキと陸上競技界で頭角を現していた関西大学には多くの有望株が入学するように。そうした新入部員に対し、主将となった鎌ちゃんは入部初日に「学生の本分について所感を述べよ。」と質問を投げかけます。
 予想外の質問に新入部員たちが返答に窮していると「学生の本分は学ぶことだよ、スポーツは学問の余暇にやるものだ」と諭しました。
 鎌ちゃんは当時オリンピックに出場できるだけの実力を持つトップアスリートでありながら、毎日トレーニングの後も机に向かって勉学に励み、成績はいつも「優」。
 また、心斎橋をブラついては外国人に声をかけて英会話を訓練し、最終的に英語、ドイツ語、ロシア語を使いこなす国際人へと成長を遂げます。
 時に西田幾多郎を、時に海外のスポーツ医学書を愛読し、文武両道の理論家アスリートとして知られた鎌ちゃんは、いつしか「跳ぶ哲学者」と称されるようになりました。

さてこの頃、海外から取り寄せたスポーツ書を読む中で、ひと際大島の心を揺さぶったのが、ドイツのスポーツ学者 カール・ディームの著書でした。
彼の多岐にわたる総合的なスポーツ研究は大島の思想に大きな影響を与えていきますが、今はまあこの辺で。

それではいよいよロサンゼルスオリンピック――大島編 をみていきましょう。

ロサンゼルスオリンピックじゃんねー!!(第29回、30回)

「いだてん」本編ではあまり描かれなかった、陸上選手目線のロサンゼルスオリンピック。
水泳選手達が大活躍をする裏で、どのようなドラマが待ち受けていたのでしょうか。

1928年アムステルダムオリンピックでは、惜しくも代表に選ばれなかった大島でしたが、4年後のロサンゼルスオリンピックでは見事三段跳び選手として代表の座を獲得します。
同じく代表に選ばれたのは、前回金メダリストの織田幹雄と4位だった南部忠平。今回は表彰式で三本の日の丸旗を掲げようと意気込みます。

というのも、早稲田大を卒業した織田は大阪朝日に入社して千里山に下宿していました。千里山といえば、そう関西大学千里山キャンパス。そしてそこには当時東洋一と謳われたグラウンドがありました。
さらに織田は満鉄に入社した南部を大阪に勧誘。南部は美津濃(現ミズノ)に再就職し、三人で練習を重ねていきます。

そんなトップアスリート三人が揃った状態ならば、表彰台の日の丸独占も夢じゃない――誰もがそれを期待していました。

ところが、好事魔多し。
なんと三人ともオーバーワークによって脚や腰を故障してしまうという危機的状態に。

それでもなんとか調子を戻してきた本番四日前の8月1日。
のどかな朝をむかえた選手村に爆発音が響き渡ります。

何事!?と選手達が駆けつけてみると、風呂場で苦しむ大島の姿が。

一体何があったのか。
大島本人の回想から事の顛末をみていきましょう。

いつもより早く起きた自分は、新設の日本風呂を皆んなが起き出すまでには良い風呂にして置かうと思つて、知らないものだから瓦斯をひねつた後へマツチを投げ込んだのである。

…え?

充満した瓦斯は泡と喰うてただれた新聞と共に噛みついて来た。只ならぬ物音が一同の和やかな夢を撹した。

オイオイオイ

自分の事すら出来ぬ者が人の事まで心配したのが祟つたのかも知れない。亜米利加の悲劇を私は地で行つて後で聞いた「火傷らしい火傷」の痛みに意気沮喪しかけたのだつた。
――大島鎌吉「人の念力岩をも通すが通らなかつたこと」p190

これぞ本当のバスガス爆発。
え~この事故、たまに「やっぱり海外の風呂は危険だな…」との声を聴くのですが、正しくは湯沸かしの仕組みを勘違いした大島が、文字通り自爆したので決して施設側に非があったわけではなりません。

この爆発事故で、大島は両腕、両足、腹部などに大やけどを負い、包帯ぐるぐる巻きで養生することに。
織田は怪我が深刻、南部は本来メインだった走り幅跳びが不振に終わり、三段跳びは練習不足。そんな矢先の大島の負傷…と暗雲立ち込みまくりの陸上組。

しかし、時は決して待ってくれません。
8月4日―三段跳び本番がやってきます。

陸上選手団主将だった織田は、次のように振り替えります。

いよいよ天命を待つべき当日が来た、しかも不完全な身体の三人が登場を余儀なくされてしまつた。
だが、どうしたことか三人同様に敗れるといふ気持ちにならない、悠々朝食を済ませて部屋の前に十数人が集まり、芝生に寝ころんで雑談を始めた、嗜虐混りの南部君の話に腹の痛くなる程笑つて時間の経つのも忘れてしまつていた。
十時すぎてやうやく腰をあげて三人打揃つてビリエーヂを後にした、道々大島君は三人で三回づつ跳ぶから九回のジャンプになる、その中の一つが優勝記録になれば良いのだから楽なものだと呑気なことをいつている。
――織田幹夫「跳躍日本を守るべく」p51

南部はというと、

前記のように私は走幅跳に専念して三段跳の練習はほとんどやっていなかった。ところが織田、大島の故障。大島君はその朝繃帯をとったばかりの痛々しい姿。織田君も調子を取り戻して元気に十三メートル五〇ぐらい試跳したが、私の傍らにきて「やっぱりだめだ」と悲痛にささやく。私の責任はいよいよ大きくなった。
――南部忠平「日章旗をあげる」p45

当の大島はどうだったのか。

八月四日! それは私の上に積み重ねられた責任、期待、好意、悪意、愛情、嫌悪其他凡ゆるものが清算される時だったのだ。
だが滔々と流るる心の底流は唯「なる様にしか成らぬ」で帆は風まかせの運まかせだった。
――大島鎌吉「人の念力岩をも通すが通らなかつたこと」p190

どこか飄々とした様子。
本番直前のこのメンタルこそが大事なのかもしれません。

そんな絶不調の彼らのライバルは、スウェーデンの小学校教師スベンソン選手。スラっとした高身長から繰り出される跳躍が、金メダルをも射程に入れていました。

試合が始まると、織田は痛みのため予選落ち。この時点で三本の日の丸旗を掲げるという目標は潰えてしまいます。しかも、予選時点での順位は1位スベンソン、2位南部、3位大島。南部は三段跳びの練習不足で大島も包帯を外したばかりの病み上がり。

 三本日章旗の夢はぐわんとどやされ醒めると残る処のものは南部君と私と誰かがスベンソンを喰わなくてならない。
二人の極東人と三人の欧州人と一人の米人とが、三つ巴に組んで激しい最後の争覇への蹴落しを開始した。
――大島鎌吉「人の念力岩をも通すが通らなかつたこと」p192

迎えた三段跳び決勝
6回の跳躍中、一度でもスベンソンの記録15m32を超えられれば優勝…しかし、4回目までは順位は変わらず。
いよいよ5回目、南部はここで決めなければ優勝はないと覚悟を決めます。

 五回目を待つ間。スヴェンソンを破り得るのはこの回しかないと思うと、胸が怪しく騒ぐ。待つ間は長いようで短い。気持の静まらぬうちに早くも順番がきた。助走路に立った。もはや無念無想。もう国もなければ親もない。なにもない。ただ全身をぶち込んでいただけである。ただ必死に走った。踏み切った、跳んだ。

そして―

 十五メートル七二! 世界記録だ!
――南部忠平「日章旗をあげる」p45

なんと南部は決勝で世界新記録を叩き出します。
我らが大島もそれをみて奮起したのか6回目に15m12を記録。惜しくもスベンソン選手には届きませんでしたが、その結果…

金 南部忠平
銀 スベンソン
銅 大島鎌吉

見事金と銅を獲得しました。特に南部は世界新記録を出しての優勝。怪我に加えて練習不足。そんなコンディションでも最高のパフォーマンスをみせた南部の勝負強さは凄いですね。
この時の大島の跳躍写真や、メダリストの3ショットは企画展で展示中です。

オリンピックにおいてもっとも重要なことは(第31回)

「いだてん」第31回「トップ・オブ・ザ・ワールド」で、まーちゃんが選手村の電光掲示板に張り付けていた目標『一種目モ失フナ』の紙を剥がすと、その下から『オリンピックにおいて大切なことは、勝つことではなく参加することである。重要なのは征服することではなく、よく戦うことだ』の文字が出てきたのは、色々考えさせられる名シーンでした。

実は、ロサンゼルス大会でこの言葉と出会い、日本に初めてこの言葉を紹介したのが大島です。

大島は帰国後、母校関西大学の雑誌『関西大学学報』に次のようなオリンピック参加報告を寄稿しています。

 希臘のオリムピックを現在に再現したのが近代オリムピックである。それは假令形体に於いて変革はあっても、四ヶ年毎にこの平和の祭典が荘厳裡に挙行されて二週間の全世界の耳目は他の凡ゆる係争から完全に遮断されてしまうのだ。故にオリムピックは次のようなモットーを掲げる。
 “The Important thing in Olympic Games is not to Win, but to Take Part.
と更に続けて、
 The important thing in Life is not the Triumph, but the Struggle.  The essential thing is not to have Conquered, but to have Fought well. To spread these percepts is built up a stronger and more valiant and, above all, more scrupulous and more generous humanity. 
  by Baron Pierre de Coubertin Founder and Life Honorary President of the Olympic Committee.
 委員会はこのモツトーを金科玉条として、「凡そ文明国は近代オリムピックに参加しなければならない」と云ふ。文明国は所謂「平和の使徒」を送って華々しく戦わすのだ。近代オリムピックは、だが併し歴史的背景を一つの使命乃至目的として有するが故にこそ、現代に於ける価値ある存在なのである。
――大島鎌吉「近代オリムピックに就いて」p32

 参加報告にも拘らず、銅メダル獲得等の話は一切せず、ただ近代オリンピックの理念・意義とモットー全文を紹介するという極めてシンプルな内容です。

大島は元々何故オリンピックが平和の祭典と呼ばれるのかについて疑問に思っていました。今大会で初めてオリンピックを経験し、モットーと出会うことで、オリンピックこそ世界平和に必要なものだと確信します。

この1932年こそが、生涯を通してその理想を守るために戦い続けることとなるオリンピックとの出会いの年となったのでした。

さて、惜しくも銅メダルに終わった“選手としての”大島はこのロサンゼルスオリンピックをどのように振り返っていたのでしょうか。

収支合計はつきりと帳面づらに現はれると入賞したよろこびよりは野望が蹴破られた悲しみの方が深かつた。
――大島鎌吉「人の念力岩をも通すが通らなかつたこと」p193

やはり相当悔しかった様子。本文中度々引用したこの回想記は、日本陸上競技連盟編『第十回 オリムピック大会報告』(三省堂、1934年)に収められたものですが、タイトルからして悔しさがにじみ出ていますね。
大島はこの悔しさを糧に次回へ向けてますます練習に励むことを宣言し、回想記を以下のような文章で締めくくっています。

 さうして大団円はどうなるか。
 今は人の念力岩をも通らなかったのである。
 だが四年後この念力は通るかもしれない。
 さうすると矢張り「人の念力岩をも通す」のかもしれない。
――大島鎌吉「人の念力岩をも通すが通らなかつたこと」p195

4年後―1936年ベルリンオリンピックではどのような活躍をみせてくれるのでしょうか。
その続きは次回!


※引用文は、異体字を新体字に変更しています。

参考資料・文献
大島鎌吉「近代オリンピックに就いて」(『関西大学学報』103、1932年)
    「人の念力岩をも通すが通らなかつたこと」(日本陸上競技連盟編『第十回 オリムピック大会報告』三省堂、1934年)
織田幹夫「跳躍日本を守るべく」(同上)
岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所、2013年)
中島直矢・伴義孝共著『スポーツの人 大島鎌吉』(関西大学出版部、1993年)
南部忠平「日章旗をあげる」『南部忠平 南部忠平自伝』(日本図書センター、1999年)初出1977年

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