福祉の歴史に金沢あり! 企画展紹介―善隣館編①―
今週末(24日)でいよいよ会期が終了する、企画展「福祉は金沢(ここ)から始まった!―陽風園と善隣館―」。
日々多くの皆様にご観覧いただいております。ありがとうございます。
やはり地元の方の来訪が多く、「善隣館て名前は知っててもこんな活動をされとるとは知らんかったわー」といったお声を頂いております。
地元・金沢の福祉への造詣が深まったならこれ幸いですが…
雑報まだ「善隣館編」書けてねえ
という由々しき事態(いつものこと)でございます。
ということで、早速善隣館の説明―にいく前に
「何故善隣館が誕生したのか」
その秘話についてみていきましょう
方面委員の誕生
前回、内務省による地方改良運動が進められていく中で、地方自治体の補助機関が各地に登場します。
大正6年(1917)に岡山県で設置された済世顧問制度がその発端とされ、翌7年には大阪で方面委員が設置されます。
これらの組織は知事が各地域の篤志家などを委員に任命し、委員が各地域の生活困窮者の状態を調査・支援していくというもので、現在の民生委員の源流となっています。
石川県でこうした補助機関が登場するのは大正11年(1922)になってからでした。
大阪など当時福祉の先進地域と呼ばれた地域を視察し、社会改良委員という名前で発足します(後に方面委員に改称)。
担い手となったのは各地域の自営業者や小学校長、医薬関係者、宗教家などから構成されており、所謂地域の篤志家として選出された人々でした。
担当地区は当初
金沢市内(野町・菊川町・石引町・此花町・馬場・森山町)
県内(大聖寺町・小松町・七尾町・輪島町)
に分けられました。
大正11年5月、社会改良委員98名が任命されます。
その中には、善隣館の生みの親である安藤謙治(1893~1947)も野町社会改良委員として参列していました。
いよいよ活動がスタートしましたが、開始早々ある大きな問題に直面します。
何をしたらいいのか分からない
安藤曰く、暑い日に長々と挨拶やら組織の説明やらを聞いてみんな分かったような分からなかったような顔で引き受けたといいます。
なんかよう知らんけどとにかく頑張るぞ
という状態からはじまった社会改良委員の活動は、すべてが手探り状態であり、無給のため活動財源もなく、住民の理解も得られずと苦労の連続でした。
自分たちの活動が本当に社会の役に立っているのか…?
本当にこのやり方でいいのか…?
そんな自問自答は、方面委員を続ける中でずっと安藤ら委員を悩ませ続けます。
ただ、こうして「何がよい方法なのか」を一生懸命考え、議論していったことが、のちに金沢独自の社会福祉施設・善隣館に結実していくのでした。
当初は上記のような広報活動のほか、地域の生活困窮者に私費でお金を与えたり相談に乗ったり、と数件ぽつぽつ活動事例が見受けられる程度でしたが、発足から3ヶ月後に金沢を大きな自然災害が襲いました。
大正11年8月、金沢は未曾有の大雨により犀川と浅野川が決壊。犀川大橋を含め両川の橋の大半が流されるという、近代金沢最大の水害に見舞われました。
さらに翌12年には関東大震災が発生し、東京から金沢に避難してきた被災者も数多くいました。
社会改良委員となった安藤らはこれら災害救助の中で、要救助者支援のノウハウ(社会調査)を学んでいきます。
当初はふんわりとした活動から始まった社会改良委員でしたが、社会調査などのちの活動の根幹ができていった結果、金沢では病気や老衰を理由とした生活困窮者が過半数であることが明らかになってきました。
彼らのニーズに応えるように施設入所の世話や救護の事務手続き、日常生活の世話などを無償で、ときに私財を投入して行うなど、要支援者の実態解明と支援に努めました。
いくつかの事例を紹介しましょう。
浦上太吉郎と東山寮
浦上太吉郎(1893~1972)は森山町出身で、安藤らとともに社会改良委員(方面委員、戦後は民生委員)を務めた薬剤師です。
寡黙な性格で自身の功績をほとんど語らない一方、社会福祉に対する情熱は並々ならぬものを持った”不言実行”の人物でした。
薬剤師という職業柄、生活困窮者と触れ合う機会が多かった浦上は、森山町には生活に困窮し家に住めない人々が少なからずいることを調査し、彼らを救助・支援するための無料宿泊施設の設置を森山町方面委員内で話し合いました。
昭和5年(1930)、方面委員による設置施設としては金沢最古の事例である困窮者収容施設「東山寮」を、私財を投じて建設しています。
建設当時、「恤救規則」に変わる社会福祉の新法「救護法」が不況による財政不足で施行されず、方面委員たちが施行運動を展開する最中でした。「公がやらぬなら私がやる」という太吉郎ら森山町方面委員たちの覚悟と熱意が伝わってきます。
荒崎良道と協心舎
東兼六町にある雲龍寺住職として宗教界から生活困窮者の支援を行う傍ら、方面委員としても活動をつづけた荒崎良道(1902~1976)。
元々裕福な家庭に育った彼でしたが、当時不治の病とされた小児喘息にかかり、お寺での修行後に回復したことから仏道の道に進み、生涯福祉に命を燃やし続けました。
ある日、寺の門前で母親の帰りを待つ母子家庭の姉妹の姿をみた良道は、「子どものほんとうの幸せのためには、必ず母親も救わねばならない」と悟り、母子保護に力を注いでいきます。
昭和10年(1935)、材木方面委員は力を合わせ、託児・母子寮・保健事業を行う施設・協心舎を設立しました。
良道は各所に借金を負いながらも、私財を投じて母子保護のために協心舎の建設を行ったのでした。
後には戦争遺児のための施設・七生寮を建設するなど、児童福祉にも尽力しています。
この他にも、共働きの家庭が多い地域では保育所を方面委員たちが設置したりと、各地域のニーズに合わせて様々な施設を設置していきます。
その建設費用の大半は、方面委員たちの私財が投じられました。
「いらぬ物好き」だと馬鹿にされ、周囲の理解がなかなか得られない中でも、方面委員の人々は地域の困っている人々の為に活動を続けたのです。
こうした活動を続ける中で、安藤謙治は自分たちの活動をより発展させていくためには、地域住民の理解が必要であること、また地域が一体となって困っている人に手を指しのべ、生活困窮者を増やさない「防貧」が必要であることを実感しました。
そして、安藤の理想を実現すべく昭和9年(1934)に誕生したのが、第一善隣館でした。
ということで、次回は善隣館について紹介します!
なお、今回紹介した安藤謙治、浦上太吉郎、荒崎良道は企画展のポスターに描かれてます。
どの人がどの人でしょう?
続きはWEB(次回)で!