福祉の歴史に金沢あり! 企画展紹介―善隣館編②―
本日(2024.11.24)で会期が終了となる企画展「福祉は金沢(ここ)から始まった!―陽風園と善隣館―」。
前回の雑報では、石川県に設置された方面委員たちの奮闘とその中で見えてきた課題に対処するために、安藤謙治が第一善隣館を設立する…という流れまでを見てまいりました。
今回は善隣館の誕生と発展について紹介していきます!
第一善隣館の誕生
第一善隣館は昭和9年(1934)、安藤謙治ら野町方面委員部によって設立された、金沢最初の善隣館施設です。
安藤ら方面委員たちの目下の悩みは、活動拠点及び地域住民からの理解不足でした。
当時各学校下(校区)毎に置かれていた方面委員は、小学校の事務室の一角を拠点として活動していました…が、
これじゃあ仕事にならん!!
という声が年々委員たちの間で湧き上がっていました。
みんなで机を突き合わせて議論を交わし、調査した書類をまとめ、自主事業を行える、そんな事務所が欲しい――当時の委員たちが、なあなあではなく懸命に役目を果たそうと情熱を燃やしていたことが伝わってきます。
小野太三郎のように家屋を買い取り、そこに生活困窮者を入所させて…という先例もあるため、浦上太吉郎や荒崎良道らのように東山寮や協心舎を私費で建設する方面委員もいました。
ただし、この方法は住民からの理解を得る事が難しい…地域住民から”隔離施設”のように帰って溝を生んでしまう…そういった危険性もありました。
また、文部省が目指していたのは”防貧”であり、いま現在困っている人たちを助けるだけでなく、将来の生活困窮者を減らしていくための「精神教化」―いわば社会教育の重要性も、委員たちは認識していました。
しかし、当時は公民館もありません。
社会教育事業を行い、地域住民が集まれる拠点づくりも必要でした。
安藤は、これらの諸問題を対処していくために
①委員活動の事務・研究
②要援護者の支援
③地域住民への社会教育
を総括する拠点構築を目指しました。
まずは建物が必要だと考えた安藤ら野町方面委員部は、野町小学校の旧校舎の一部を借り受けます。
ここに、地域住民の救貧(福祉)と防貧(社会教育)のため、託児や授産、相談、社会教育事業を行う施設・第一善隣館が誕生しました。
当時の事業は、託児・授産・図書室・青少年育成・仏教法話・講座開催・各種相談…と、地域住民への社会教育を重視していることが分かります。
また、図書室や善隣少年団(現 ボーイスカウト)の発足など青少年育成に力を注ぎました。
さらに、法話や講座の開催など地域住民との交流の場とすることで、善隣(助け合いの心で、近隣の人々と心を通わせ、支え合い、お互いに善き隣人を作っていく)の思想を普及することを目指しました。
安藤は「善隣館」という名前にした理由については明確に語っていません。
ただ、地域住民が力を合わせて困っている人々を助け、減らしていくことを目指したことからも、善き隣人同士で支え合い助け合う、そんな施設(館)を理想として名付けたのではないでしょうか。
展示中の「第一善隣館」の看板は、昭和9年発足当時の看板です。
風雨にさらされた木製看板ですのでもう残っていないものと思っていたのですが…実は陽風園さんで保管されていました(!)
広がる善隣館
第一善隣館の誕生は、金沢市内の各方面委員たちに大きな影響を与えました。
翌年(1935)には、複数の方面委員が共同して第二善隣館(玉川町→本町)が設立されます。
第二善隣館は長土塀・長町・長田町・芳斉・松ヶ枝町・此花町・諸江町・瓢箪町・大野町・粟崎町の10方面委員部が共同で運営を行っていました。
これ、地元の方ならなんとなく分かると思うのですが、
管轄範囲広すぎい!!!!!
という問題が発生し、次第に各方面部が独立して善隣館を発足させ、戦後までに閉館しています。
この写真は第一善隣館さんが所蔵していたアルバムに残されていた在りし日の第二善隣館の姿であり、情報がほとんど残されていない第二善隣館の貴重な写真となっています。
※(本アルバムは、昭和15年(1940)に安藤謙治が藍綬褒章を受章したことを記念して作られたもので、昭和15年段階に存在した善隣館の写真が収められています)
第二善隣館が発足した同年、荒崎良道ら材木方面委員部は母子保護を中心とした福祉施設・協心舎を建てましたが、なんと雪害で倒壊するという憂き目にあってしまいます。
不幸中の幸いで、誰一人死傷者は出なかったそうですが、借金をつくってまで必死に建てた施設が一瞬で倒壊…普通ならば心が折れてもおかしくないですが、荒崎たちはすぐに前を向き、もう一度施設の復興を目指します。
そして翌年の昭和11年(1936)、小将町に第三善隣館を建立しました。
ここでは協心舎以来の母子保護事業を中心とし、託児・簡易産室・授産・宿泊保護・講習開催といった自主事業をおこなっていきます。
また、「幸福の源は健康にある」との考えのもと、金沢医科大学(現 金沢大学医学類)の協力を得て健康相談や診療所を開設するなど、保健医療にも力を入れました。
戦後も女子学校や肢体不自由児保育を開始するなど特色ある活動を展開していきます。
浦上太吉郎ら森山町方面委員部がつくった東山寮(1930年建設)も、昭和17年(1942)に森山善隣館となり、無料宿泊・授産事業に加え、浦上自身が薬剤師だったこともあり低額診療などをおこないました。
こうして善隣館は金沢市内各地に登場し、また自主的につくった施設を善隣館として発展させていくケースもみられました。
各地域のニーズに合わせた自主事業を展開しているため、同じ”善隣館”という名前でも、内容は大きく異なっていることが分かります。
こうした善隣館発足動きは戦時中も、むしろ戦時下においてより一層加速していきます。
戦時体制下という厳しい状況下で、方面委員たちは軍人遺族の庇護など、所謂銃後の活動を展開していきます。
安藤謙治が昭和天皇に進講をおこなったときの台本も残っており、日常生活が苦しい中で地域住民が力を合わせて困難を乗り越えていこうとする、当時の地方社会の様子が記されています。
こうして昭和9年に生まれた善隣館は戦時下でその数を増やし、最大19の善隣館が金沢市内に誕生しました。
次回は戦後の活動についてみていきましょう。
ということで、会期は本日で終了ですが、雑報は「もうちとだけ続くんじゃ」といういつものムーブを発動させていただきます…。
(前回の答え)