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館蔵品展【前期】の見どころ紹介④ー国府犀東編ー

先月、6月23日(日)をもって終了した館蔵品展【前期】―明治・大正編―
え?今日は7月30日でございます。
ハイ、もう期間をとっくに過ぎておりマス。…でも恥も外聞もなく続きを更新していきますよ!(開き直り)

地味に派手な漢詩人 国府犀東

国府犀東書

「犀」がつくペンネームといえば、金沢の三文豪・室生犀星(1889-1962)が有名です

実は犀星がペンネームを考える上で参考にしたとされる人物がいます。
それこそが今回紹介する 国府犀東(1873-1950)

本名は種徳(たねのり)といい、犀川の東(竪町)出身であったことから「犀東」と名乗りました。
犀星のペンネームは犀東を意識して「犀川の西出身=犀西」をもじったといわれています。
年齢は犀星よりも一回り以上上の世代、徳田秋聲や泉鏡花と同世代です。

犀東の名前は徳田秋聲の自伝的小説『光を追うて』に度々登場します。

その頃から漢詩を作っていた国府とも往来していたので、多分橋本左内の「啓発録」とか大塩中斎の「洗心洞劄記」とか、その根元の王陽明の「伝習録」といったようなものを書写したりしていた。……(中略)……
等は或る時国府の家の二階で広瀬淡窓の詩を読ませられ、ひらめの詩に感心している彼の鑑賞眼を羨ましく思ったことがあった。作詩はほんの少しばかり兄から教わったのだったが、要学便覧程度のものだったので、国府の造詣は計り知るべくもなかった。

徳田秋聲『光を追うて』

これは等(作中の秋聲)が石川県専門学校時代の思い出を振り返った時の文章です。
後に国内を代表する漢詩人として知られる犀東ですが、学生時代(おそらく十代前半)から既に漢詩に対する情熱と素養はずば抜けていました。
また藤岡作太郎から和書を借りて読むなど、知人友人を介して様々なジャンルの本を読み漁っていたようです。
その後は第四高等中学校に転入し、「やめてやるぜー!!」と中途退学した秋聲や桐生悠々とは違いしっかりと卒業。
そして帝国大学政治学科に進学して中退します。

なんでやねん!!

と思わず言いたくなるところですが、これには理由がありました。
当時の帝国大学といえば官僚養成学校であり、大学を卒業したものは優秀な官僚として第一歩を踏み出すのが基本ルートでした。
しかし、犀東は中退後ジャーナリストとして活動を開始します。
どうも在学中に文章で職にありつけたらしく、「じゃあ辞めるか」という感じで中退したようです。
自身の文才を生かせる場は官僚(ここ)じゃないと思ったのかもしれません。

このジャーナリスト時代、一時期台湾に住んでいました。
「川に船を浮かべてまったりお月見をしていたら銃弾が飛んできた」
「孫文から革命資金の援助を依頼されて東奔西走した」
等々、なかなかに濃ゆい経験を積んだようです。

その後は博文館の主筆を務めたり、各新聞社で社説を担当したりと文才を生かして社を転々としながら働いていました。

犀東にとって大きな転機となったのは、先輩の井上友一(1971-1919)の誘いでした。
当時内務官僚としてバリバリ働いていた井上は、国府に自分のもとで働かないかと声をかけます。
井上は当時内務省が進めていた「地方改良運動」の推進者であり、疲弊した地方に活気を取り戻すため様々な社会事業や政策に取り組んでいました。
この井上の熱意に心を動かされたのか、国府は内務省の嘱託となり、井上の手足となって地方改良運動に取り組んでいきました。

井上は東京府知事在任中に急逝しますが、その時井上の略伝『井上友一君断片伝』を執筆しています。

その後も各省や内閣の嘱託、また宮内省御用掛として、勅語や詔書の起草、大礼使を担当するなど博学さと文才を存分に生かして活躍していきます。
皇族からも信頼が厚かったらしく、親王・内親王の命名なども担当しています。
また、嘱託の傍ら長らく慶応義塾大学の講師を務めており、教育の場でも活躍しています。
ただ、嘱託のお仕事は基本表に出ないものであり、所謂ゴーストライターとして首相や大臣の代わりに詔書や碑文の文章を執筆していました。そのため実際に国府が執筆したものは現在知られているもの以上に多数あると言われています。

このように、国府犀東は一見すると地味(失礼)ながら、多方面で活躍した博覧強記の人物でした。


国府犀東書

館蔵品展では、国府が書いた漢詩を2幅と、友人・桐生悠々の遺族に送ったお悔やみ文を展示していました。
漢詩の名人として知られた犀東でしたが、文字はこう…達筆というより味わい深い字です。
2幅はともに日本の景色を歌ったもので、上記の写真は広島の三段峡(さんだんきょう)で、最初に載せた方は宮崎の行縢山(むかばきやま)を題材にしています。
犀東は旅先などで見た景色を題材にして即興で漢詩をつくり、旅館に寄贈したものも多々あったようです。
当館が現在所蔵しているこの2幅も、おそらく旅先で書いて旅館にあげたものとみられます。
犀東の子息の種武は「手を入れすぎた雑誌発表のものより旅先の旅館の女中さんに与えたような即興のものの方がいいものが多いと思っている」と語ります。

幼いころから漢詩に慣れ親しんだ国府犀東が、旅先で思いのままにのびのびと書いた漢詩にこそ、彼の真髄があるのかもしれません。

ということで、今回は国府犀東について紹介しました。
次回は前期展最終回!
このままじゃ後期展も終わってしまう!!

参考文献
国府種武「国府犀東」(『日本文學誌要』22、1970年)